第58話 焦り
文字数 1,813文字
先日、市十郎は帰国の挨拶もそこそこに、ここを立ち去った。江戸にいるお殿様の様子を聞きたかった私は当然不満だったけれど、あいつの方もお殿様のご命令で、取り急ぎ何かやることがあるようだったから致し方ない。
だけど今日の市十郎が持ってきた報せは、やはり看過できないことだった。
もっと早く教えてもらいたかったわ。だってそれは、お殿様と国元の座席衆との対立が再び決定的になりつつあるということだったから。
「とにかく平島公方の件がまずい」
市十郎は私と建部の顔を交互に見比べる。
「確かに失態はご家老の方にあるが、にしても殿のお怒りが半端ではないのだ。あれではご家老が釈明なさっても、聞く耳を持たんだろう」
何でも江戸から戻った三浦大炊助 という藩士が、妙なことを吹聴しているんですって。
「お殿様は、お気が触れたのではないか? 平島公方におのれの地位を奪われるのではないかと、とんだ勘違いをなさっておられるようだ」
それがそのまま噂として広まっているものだから、こっちはたまったもんじゃないわ。
「平島公方、ね……」
私は手に持った扇子を持て余し、脇息にもたれかかったまま上下させた。そいつの名前は聞いたことぐらいあるけど、それほどの問題だとは知らなかった。お殿様も相手にしなきゃいいのに。
とはいえその男の処遇をきっかけに、座席衆はもう我慢ならぬということになってしまったのだから、ただ事じゃないわよね、確かに。
「この情勢で、ご帰国させてはならん」
佐山は強い口調で述べた。
「とにかく今は駄目だ。国を滅ぼしかねない主君と見られたら、何が起こってもおかしくはないぞ」
だけど、私は思わず嘆息する。
「……前から、そんなことは何度も言われてたわよね?」
そうよ。家老たちと仲が悪いのは今に始まったことじゃないんだから。たった今、どうやってお殿様をご帰国させようかって話していたところなのに、せっかくこれから楽しくなるところだったのに、あなたは水を差すつもり?
だけど佐山は、そんな私の悠長さを否定するような態度だった。
「……敵はたぶん、押込めを狙っている」
聞き耳を立てている者がいないか、改めて周囲に視線を払うほどの警戒ぶり。佐山は気の済むまでそうしてから、また私たちに顔を戻した。
「次のご帰国時が危険だ。この際、力ずくで引きずりおろすつもりではないか」
「間違いないのか」
建部は私よりまともに耳を傾けているようで、真剣な表情で腕組みをする。
「長谷川邸に人が集まっているのは知っていたが、まさか」
「伊賀者を数人、潜り込ませた」
佐山は否定するでもなく、いっそう声を落としたわ。
「向こうも用心していて、話している内容まではなかなか分からなかったが、先日、薪炭を運び入れた者が、ついに押込めという言葉を聞いたらしい」
それから、と佐山は改めて咳払いをした。
「もう一つ、悪い知らせがある。殿の体調が芳しくないという噂は聞いておるだろうが」
これも三浦という男が発生源なんですって。
「顔色が普通ではなかった、息も絶え絶えだったと申しておるゆえ、家中では殿はもう長くないのではないかともっぱらの噂だ」
「ひどいこと。わざと流しているんだわ」
私は扇子でパンと片手を打ってつぶやく。
いくら何でも、そこまで悪くはないでしょうに。敵はとにかくお殿様を貶めようと、躍起になってるんじゃないかしら? だいたいお殿様のご体調がそこまで悪いなら、良医を求めて江戸に行った意味がないじゃない。
でも気になって、一応聞いてみたわ。
「あなたの見たところ、殿はどのぐらいお悪いの?」
すると佐山は、急に言葉に詰まり出した。
「残念ながら、もうお一人ではお歩きにもなれぬ。押込め云々は確かに心配にござるが、それ以前に、殿がお望みになったところでご帰国の旅が叶うかどうか……」
「ちょ、ちょっと!」
私は扇子を取り落とした。自分の顔から血の気が引くのが分かったわ。
「それほどにお悪いなら、なぜそれを一番先に申さぬのです」
「かなり、悪いことは確かにござる……」
少々後ろめたそうに目をそらす佐山を見て、私は両手で口元を覆った。
阿波を出立する時のお殿様の面差しを思い浮かべる。確かにあのときすでに顔色は良くなかったわ。だけど、あれ以上悪くなることはないと思っていたのに。
とてつもない焦燥感が私を襲う。眩暈すら覚える。まさかとは思うけど、もう二度とお殿様に会えなかったらどうしよう。
だけど今日の市十郎が持ってきた報せは、やはり看過できないことだった。
もっと早く教えてもらいたかったわ。だってそれは、お殿様と国元の座席衆との対立が再び決定的になりつつあるということだったから。
「とにかく平島公方の件がまずい」
市十郎は私と建部の顔を交互に見比べる。
「確かに失態はご家老の方にあるが、にしても殿のお怒りが半端ではないのだ。あれではご家老が釈明なさっても、聞く耳を持たんだろう」
何でも江戸から戻った三浦
「お殿様は、お気が触れたのではないか? 平島公方におのれの地位を奪われるのではないかと、とんだ勘違いをなさっておられるようだ」
それがそのまま噂として広まっているものだから、こっちはたまったもんじゃないわ。
「平島公方、ね……」
私は手に持った扇子を持て余し、脇息にもたれかかったまま上下させた。そいつの名前は聞いたことぐらいあるけど、それほどの問題だとは知らなかった。お殿様も相手にしなきゃいいのに。
とはいえその男の処遇をきっかけに、座席衆はもう我慢ならぬということになってしまったのだから、ただ事じゃないわよね、確かに。
「この情勢で、ご帰国させてはならん」
佐山は強い口調で述べた。
「とにかく今は駄目だ。国を滅ぼしかねない主君と見られたら、何が起こってもおかしくはないぞ」
だけど、私は思わず嘆息する。
「……前から、そんなことは何度も言われてたわよね?」
そうよ。家老たちと仲が悪いのは今に始まったことじゃないんだから。たった今、どうやってお殿様をご帰国させようかって話していたところなのに、せっかくこれから楽しくなるところだったのに、あなたは水を差すつもり?
だけど佐山は、そんな私の悠長さを否定するような態度だった。
「……敵はたぶん、押込めを狙っている」
聞き耳を立てている者がいないか、改めて周囲に視線を払うほどの警戒ぶり。佐山は気の済むまでそうしてから、また私たちに顔を戻した。
「次のご帰国時が危険だ。この際、力ずくで引きずりおろすつもりではないか」
「間違いないのか」
建部は私よりまともに耳を傾けているようで、真剣な表情で腕組みをする。
「長谷川邸に人が集まっているのは知っていたが、まさか」
「伊賀者を数人、潜り込ませた」
佐山は否定するでもなく、いっそう声を落としたわ。
「向こうも用心していて、話している内容まではなかなか分からなかったが、先日、薪炭を運び入れた者が、ついに押込めという言葉を聞いたらしい」
それから、と佐山は改めて咳払いをした。
「もう一つ、悪い知らせがある。殿の体調が芳しくないという噂は聞いておるだろうが」
これも三浦という男が発生源なんですって。
「顔色が普通ではなかった、息も絶え絶えだったと申しておるゆえ、家中では殿はもう長くないのではないかともっぱらの噂だ」
「ひどいこと。わざと流しているんだわ」
私は扇子でパンと片手を打ってつぶやく。
いくら何でも、そこまで悪くはないでしょうに。敵はとにかくお殿様を貶めようと、躍起になってるんじゃないかしら? だいたいお殿様のご体調がそこまで悪いなら、良医を求めて江戸に行った意味がないじゃない。
でも気になって、一応聞いてみたわ。
「あなたの見たところ、殿はどのぐらいお悪いの?」
すると佐山は、急に言葉に詰まり出した。
「残念ながら、もうお一人ではお歩きにもなれぬ。押込め云々は確かに心配にござるが、それ以前に、殿がお望みになったところでご帰国の旅が叶うかどうか……」
「ちょ、ちょっと!」
私は扇子を取り落とした。自分の顔から血の気が引くのが分かったわ。
「それほどにお悪いなら、なぜそれを一番先に申さぬのです」
「かなり、悪いことは確かにござる……」
少々後ろめたそうに目をそらす佐山を見て、私は両手で口元を覆った。
阿波を出立する時のお殿様の面差しを思い浮かべる。確かにあのときすでに顔色は良くなかったわ。だけど、あれ以上悪くなることはないと思っていたのに。
とてつもない焦燥感が私を襲う。眩暈すら覚える。まさかとは思うけど、もう二度とお殿様に会えなかったらどうしよう。