第69話 よそ者の正体

文字数 2,471文字

 先導の茶坊主の後ろから、書院の間をそっと覗き込む。
 すると、いるいる。文机の前にどんと居座って、問題のお方は鼻歌交じりだ。

 久々の「お殿様気分」といったところか。藩主重喜(しげよし)公は意気揚々と、決裁書に花押を書き入れているところである。
「おう、九郎兵衛(くろべえ)か。入れ」
 声に張りがあるところを見ると、今日は体調も良いのだろう。
 
 私は主君の正面に回り、本日の分として持参した書類を差し出し、平伏する。

 身を起こしたとき、改めてこの主君の横顔が目に入った。
 病気のせいだろうが、肌がむくんでいる。年齢以上に全身が弛んでいるのが感じられた。
 端正で引き締まっていた、少し前のこのお方のことを思い出す。必死に私を頼り、何とか国を立て直したいと訴えてきた若き主君は、頼もしいと同時にほほえましいものだった。
 何かが違ってきている。見た目だけは一人前に年を取ってきたものだ。

 もちろん感傷に浸っている場合ではない。今日はどうしても、伝えねばならないことがあった。
 私は居住まいを正し、咳払いをする。

「先日、祭を奨励すると仰ったそうにございますな」
 自制はした。しかし私の咎めを敏感に察したのだろう、重喜公はいささか気まり悪そうに頭を掻いた。

「あ……ああ。何かまずいことでもあるか」
「倹約令を出し、あれだけ華美を禁じておいて、今さら奨励なさるも何もないでしょう」
「だってあれは、徳島のみんなの楽しみではないか」
 主君の声が太くなる。
 こちらが身構えたのが伝わったのか、重喜公はふざけて盆踊りの手真似をして見せた。
「庶民が夢をもってこそ、景気が良くなるというものだ。のう?」

「殿。今日は真面目にお話ししましょう」
 私は取り合わないことにした。
「庶民はともかく、士分の者には祭への参加をお許しになってはなりません。長い間、御家はご家中に、祭の期間中の外出を固く禁止して参りました。女も子供も武家に生まれた者として、我慢に我慢を重ねて参ったのでございます。それをいきなり、なしにされては藩の威信に関わりまする」

「そうかなあ?」
 ちっとも深刻さを認識しない声で、重喜公は小首を傾ける。
「本当は武士であれ百姓であれ、踊りたいのだと思うぞ? 普段は厳しい世の中を生きておるのだ。たまには息抜きも必要だろう」

 重喜公は前のめりになり、少し押し殺した声で提案する。
「なあ九郎兵衛、その日だけは誰もが身分を忘れて遊んで良いことにしないか?」

 ふう、と私は思わず嘆息する。
「阿波武士は誇り高き者にございます。あのような乱痴気騒ぎに、自ら加わるはずがございません」
「いやいや、頬かむりして踊ってる奴らがおるだろう。あれはたぶん、家中の者であった。間違いないぞ」
「まるでその目でご覧になったかのような口ぶりにございますな」
 
 じろっと睨み上げる。同時に重喜公はしまった、という感じで口をつぐんだ。
 まったくこのお方は護衛もつけず、フラフラ出歩こうとなさるものだから、多くの者が迷惑しているのだ。

「……いや、九郎兵衛、わしとて考えなしに物申しておるのではない」
 懲りずにまた思いついたようで、なおも重喜公は食い下がってくる。
「倹約令は、国が亡びるほどの財政難を食い止める苦肉の策であった。七ヶ年という約束の年限も過ぎた。確かに財政が好転したわけではないが、庶民の我慢も限界だ。今はむしろ盆踊りをこの国の文化と認め、保護し奨励して、ゆくゆくは藩庫の収入を増やすのが良い。そちもそう思わんか」

 私は即答しなかった。
 もちろん私とて、この意見を理解しないわけではない。特に盆踊りの期間中の徳島には「盆景気」という言葉が生まれるほど、ご城下の空気が変わるのだ。
 祭の準備が始まる頃から、ご城下の楽器職人の元には三味線や太鼓の注文が殺到する。一年で最も華やぐ季節、誰もが鳴り物なしではいられないのだ。
 となると、踊りの際の衣装も多くの者が凝りに凝るものだった。呉服商はもちろん、髪結いに小間物商、雑貨商までが潤うときている。

 また近頃は、娘たちの三味線流しとやらが大人気であるらしい。少しでも裕福な家では競うように豪華な衣裳を娘に買い与え、美しく着飾らせる。祭で注目を浴びることで、ついでに良縁をつかもうというわけである。
 そんなわけで、盆休みには他国の見物人までが大挙して押しかける事態になっている。徳島ご城下では宿屋業はもちろん、酒食を商う小商人たちも大繁盛である。

 私とて、と思う。
 私とてご公儀の目さえなければ、むしろ観光の目玉にしたい。そしてもっともっと人を呼びたいぐらいなのだ。

 だが重喜公がそれを理由にし、ご自分の贅沢をごまかすのは困るものだった。
 何かと衝突することが増えているが、先日もそうだ。藍大尽(あいだいじん)の件で、私は重喜公と言い争ったのである。

 以前に私たちは、阿波藍(あわあい)専用の市場をご城下に作った。その目的は、百姓から身を起こした在地の零細商人を保護することにあった。
 ところがこの市場、いつの間にかほとんど大坂の商人に乗っ取られていたのである。彼らは「藍大尽」などと呼ばれ、大変な羽振りの良さとなっていた。

 私の知らないうちに、重喜公が外地の商人の参入を許していたことが発覚した。その独りよがりなやり方に、私はかっとなって言いつのった。
「初心をお忘れですか。これでは徳島ではなく、大坂に金を流すことになってしまうでしょう」
 もちろん重喜公は聞く耳を持たず、持論を振りかざすのみだ。
「城下での取引量を増やそうとしてやったことだ。大店に撤退されたら、徳島の町はまたしぼんでしまうぞ」

 たぶん林建部あたりの意見であろう。証拠はないが、もしかしたら大坂商人から袖の下があったのかもしれない。

「商いの世界は厳しい。強い者が生き残るのは、ある程度致し方ないではないか」
 重喜公が冷たく言い放つのを聞いたとき、私はある事実に気づいた。

 身内が痛い思いをしていないのだ。
 このお殿様には、徳島に縁者がいない。

 以前の座席衆が何を感じていたのか、少しずつ見えてきたような気がする。よそ者藩主の正体がこれだ。

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