第41話 頭のおかしい女

文字数 2,342文字

 なるべく話は外に漏らしたくないところだったので、私はきせに命じて人払いをしてもらった。
 
 近寄って車座になったとき、私はおやと思ったわ。これまで別行動をとってきた二人の男の間に、まったくと言っていいほど距離がなかったから。
 そういえば家格は少し違えど、二人は友人同士だったのよね。市十郎は不安を滲ませて建部の顔を覗き込み、親しい口を利いた。
「建部。実際のところ、ご家老から離れて大丈夫なのか」

「大丈夫なわけがなかろう。ったく、お前らのせいで、おれの人生メチャクチャだよ」
 建部は自嘲気味に笑いながらそう言ったけど、すぐに顔を引き締めたわ。
「だが正直に言おう。山田織部のくびきから解放されて、おれは今、喜んでいる」

 これまでにないほど、建部の目に光があったわ。この男が自分の中の何かを断ち切ったのは確かだった。
「あの従兄には、逆らえばお前の将来はないと言われ続けてきた。おれはずっと、頭を押さえつけられていたわけだ。立ち上がった以上、覚悟を決めたよ。やってやる、徹底的に」
 建部の拳が小刻みに震えた。そこには、これまで噛み締めてきた悔しさが滲み出ていたわ。

「……歴史をさかのぼれば、蜂須賀家の旗本としての立場は、山田家より林家の方が上だったそうだ。なのにいつしか立場が逆転し、今は山田家に遠慮してものも言えぬ。だから、こうなったのは偶然ではないような気もするんだよな」
 建部はふうっと大きく息を吐き出した。
「とにかく、おれは殿に賭けた。もう後には引けぬ。この君臣抗争、何が何でも殿に勝ってもらわねばならん」

 良いか、と言って、しがらみから解放された建部は私たちをうながした。
「先日の評定は、とりあえず殿が勝ったような形になってはいるが、予断を許さぬ情勢だ。家中には座席衆と縁続きの者も多い」
 私はうなずいた。
 確かにそうだわ。お殿様はご養子の身で、弱いお立場だもの。何かあれば、すぐに立場は逆転する。下手をすれば廃位に追い込まれるでしょう。

 市十郎も同じ認識のようだった。
「ご家老衆に立ち向かえるよう、こちらも味方を増やしたいところだが、当てはござらんか」
 すくい上げるように、建部に視線を投げかける。

「味方ねえ……」
 建部は少し考えながら、賀嶋(かしま)兵庫(ひょうご)、同勘解由(かげゆ)、中林主馬(しゅめ)といった同役の近習たちの名を挙げた。座席衆と同じ苗字の者もいるけど、この建部と同様、一段格下の奴らだから、ちょっと見劣りがするわね。

 ただ建部とはもちろん、お殿様とも比較的気心が知れているし、何といっても全員、年齢が近いんですって。

「そうした若い世代の者なら、比較的取り込んでいけるやもしれぬ」
 建部は話しながらふと、ゆるめに帯を締めた私のお腹に目を留めたわ。
「お楽どのには心してもらわねばならん。殿が勝てば、あんたの発言が阿波の藩政を左右することになる」

 何を言われているのか分からなかった。
 でも急に思い当たって、私は思わず自分の腹に手を当てたわ。
 それは、ぞくっと全身が泡立つような感覚だった。お殿様の言った通り、私たちの意思とは関係ないところで大きな力が働いてしまうようね。

 私は建部から身を離すようにして、相手を睨みつけた。
「妙なことを考えないでよ? たとえ男の子が生まれても、この子は跡継ぎにはなれないの。それに殿は、女の子が欲しいって仰ったのよ」

「さようか。しかしここは男の子を産んで欲しいところだな」
 建部は平然と受け流す。
「江戸の若君とて、無事に成人される保証はどこにもない。今、お腹にいるその子が後を継がれることをも見据え、いろいろと手を打っておくべきだ」

「跡継ぎって……何て気の早い話なの」
 私は呆れて、しばらく言葉も出てこなかったわ。この人、早くもお殿様個人の意向より、自分が将来的に藩政を左右する計画で頭がいっぱいになってる。
「だいたい、あたしはそんな下心でお殿様に近づいたわけじゃないから」

 いくら言っても、建部は冷やかに苦笑するばかりよ。
「何を言ってるんだ。お前はただのお役目で、殿のお側に上がった。それ以上でもそれ以下でもない。腹の子は利用させてもらうぜ」
「あたしとお殿様は本気で愛し合っているのよ。変なこと言わないで」
「やれやれ、聞いたか。頭おかしいぞ、この女」

 建部は市十郎と私を引き比べるように見たけど、市十郎の方は無言だった。
「ま、その話はまだいいや。市十郎も周囲に掛け合ってくれ。段取りを決めよう」

 会話の外側に置かれて、私はまた気分が悪くなってきた。下腹部を必死にさすり、こみ上げてきた唾を何度も飲み込んだわ。
 かわいそうにって思ったわ。お殿様はいつもこんな風に、人々の野心に取り囲まれているのね。どんなにか苦しかったことでしょう。

 やがて建部の方がでは、と言って先に立ち上がった。
「今はお互いに、殿をどう盛り立てていくか考えよう」
 時間のない建部はすぐに表御殿へ戻って行ったけど、私は返事をする余裕もなかった。呼吸が荒く、ずっと腹をさすり続けてる私を見て、市十郎の方は立ち上がりかけた膝を元に戻したわ。

「……大丈夫ですか」
 ええ、と小さく答えつつ、私はわざわざ心配そうな表情を作る市十郎から顔を背けた。建部はどうもがめつくて好きになれないけど、こっちはこっちで頼りないわよね。

 今のところ、主君派にはこの程度の人間しかいないっていうのが現実だった。
 要するに、どっちかっていうと冷遇されてきた者がお殿様についただけなのよ。お殿様の崇高な理念を分かってる者が何人いるのかしら。

 主君派の先行きを暗示するかのように、今、私の下腹部には鈍痛があった。わずかだけど、流血の感触もある。
 落ち着け、落ち着けと私は自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。

 数日後、私は完全に流産した。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み