第80話 お殿様の正体

文字数 3,545文字

 私は両手で傷を押さえた。斬られた実感はないのに、それに反してずきずきと全身に伝わる鼓動が大きくなっていく。どの程度の傷かは分からなかった。

 懐剣を手にもう一度飛びかかろうと思うのに、傷から手を離せなかった。次第に体に力が入らなくなる。
 私はその場に崩れ落ちた。
 どうしてこれほどまでに、私は無力なんだろう。あまりの情けなさに涙が出たわ。

「そのぐらいにしておけ、中根」
 暗闇の中に飄々とした声が響いた。
 現れたのは、稲田九郎兵衛だった。
「そのような女のために、大事な剣を汚すこともあるまい。どうせこの御殿はもうすぐ流される」

 中根は最初から私のことなど相手にする気もなかったんでしょう。むしろほっとしたように懐紙で刃を拭って腰に収めたわ。

 稲田はかがみ込んで私の傷を改めたけど、もちろん助ける気などなかった。
 何も言わずに立ち上がると、稲田はどかっと傷を蹴り上げてきた。信じがたいような激痛が私を襲う。
 これが、お殿様の信頼していた稲田の正体だった。

「お久しゅうございますな、お楽の方様」
 言葉だけは丁重に述べ、稲田は冷やかに私を見下ろしてきた。
「それがし、阿波の座席衆とは違い、殿を手にかけるような真似は致しませぬ。ただ、殿に付き従い、黄泉の国までお供つかまつる所存にござる」

「黄泉の国……」
 思わず繰り返して、私は頭をもたげた。お殿様がまだ生きていることを、稲田は匂わせたような気がする。

「……お願い、殿に会わせて……」
「一緒に死にたい、と申されますか。よろしい。いいでしょう」
 稲田は自分の背後の襖に手を掛けると、勢いよく開けた。
 何も見えないほどの深い闇。どんよりした空気が外へ流れ出てきたわ。

「後のことはご心配なく。ご公儀にはちゃんと、御家の安泰と千松丸君の継承を認めさせる手筈になっております」
 私は中根に首根をつかまれ、闇の中に投げ入れられた。
 どさっと、私は力なくその場に倒れる。

「……淡路城代ではあったが、それがし、阿淡両国のために心血を注いで参った。最後までそれを貫き通す所存にござる。そこにいささかの私心もござらぬ」

 私は傷をかばいながら半身を起こし、部屋の外に立つ稲田を振り向いた。
 そんなの嘘よ。稲田の中に、お殿様に付き従って死ぬ覚悟は見えなかったわ。

 お城が崩れるとき、この男は側近の力を借りて脱出するつもりなんでしょう。そして幽閉され、置き去りにされたお殿様は死ぬ。
 稲田にとってその先にあるのは、千松丸君を擁した自分の帝国よ。

 ふつふつと、怒りがたぎり出す。
「……おのれ、稲田……」
 私は震えながら声を振り絞った。
「最初から阿波を手に入れるつもりだったのね。殿が言いなりにならぬと気付いたら、殿のお子を利用する。この不忠者!」
 だけど、それが残された体力の限界だったみたい。目まいがして、私は再び崩れ落ちた。

「やれやれ、参りましたな。不忠者呼ばわりですか」
 苦笑して稲田は言った。
「侍の忠義とは、御家第一に生きること。この家中とて、皆が御家の安泰を願っておりまするぞ。ただそれは、お殿様個人を崇拝するのとはちょっと違う」
 
 激しい雨音とともに、建物がきしみ、揺れている。稲田はせっかくですから、とつぶやくように言った。
「御殿が流されるまでの間、お話ししておきましょう。あなたがこれほどまでに心酔する、そのお殿様の正体を」

 そのとき私はふと、人間の気配を感じたわ。
 手を伸ばしたら、指先が着物に触れた。ほとんど真っ暗闇の部屋だけど、少し目が慣れてきたせいか、見えたわ。お殿様の体が、ぐったりと畳の上に投げ出されてる。

「……日光のお手伝い普請のとき、それがしは総奉行に任ぜられました。ために、淡路の仕置役を一時外され、ひたすら日光と江戸を往復しておりました」
 稲田の声が、川の轟音とともに響く。
「江戸で金策に走り回っていたある日、私は佐竹壱岐守(いきのかみ)様の知遇を得ました。壱岐守様は疲れ果てた私に仰いました。徳島藩には金がないのか。何なら有力商人を紹介してやろうと。お陰で、御家はお手伝い普請を乗り切ることができた」

 目の前に、お殿様の足首がある。脚気でむくんだ肌に、縄が巻きつけられ、食い込んでる。
 それを必死にほどこうとしたんでしょう、黒々と出血した跡まで見えたわ。

 稲田は構わず語り続ける。
「御家が跡継ぎに困ったのは確かだが、藩主にふさわしいお方は、他にいくらでもいましたよ。だがあの時は壱岐守様の圧力を無視できなかった。壱岐守様の四人の息子、揃いも揃って馬鹿揃いだったが、その中から選ぶより他なかったのでござる。四男の岩五郎君が一番まし、でしたかね。ま、その程度ならいくらでもいるが」
 
 稲田は自嘲気味な笑いを浮かべる。
「そこで、当時の江戸仕置だった賀嶋家老に相談したのです。次のお殿様は佐竹岩五郎君にして頂けないかと。賀嶋家老は事情を汲んで受け入れて下さったが、厳しいお叱りを受けた。よくも妙な借りを作ってくれた、貴公はしばらく淡路に引っ込んでおれ、とね」

 晴れて壱岐守家の子、岩五郎君は、蜂須賀家にやってきて十代藩主重喜となった。そう稲田は語ったわ。
「やはり、という感じでしたな。あのわがまま、傍若無人ぶりに皆が困惑しましたとも。だが徳島の人々は耐えた。壱岐守様のご意向に反してはなりませぬゆえな」

 稲田は氷のような視線を私に注いでくる。
「ところが、壱岐守様は薨去された。殿をかばい立てする理由がなくなったのでござる。もう縛られることはない。いずれ殿には何らかの形で当主の座を退いていただこうと、こうなったわけでござる。山田織部どのはいささか事を急ぎ過ぎましたがな」
 
 あなたはそういう時に御殿に送られたんですよ、と稲田は鼻で笑った。
「最初から、このお方はそれなりの器でしかなかったんですよ。それでも名君となって頂くべく、こちらは最善の努力をしたが、それももう終わりだ」

 二度目のお手伝い普請? とつぶやくと、稲田は真顔に戻った。
「ふざけるな。これ以上、バカ殿の面倒など見きれぬわ」

 悔しかった。悔し過ぎて涙も出なかった。
 稲田はお殿様の本当の人となりを、知らないのよ。知らないからそんなことを言えるのよ。

 私は知ってる。この人の優しさを知ってる。それはもう、他人の欠点も笑って許してやってしまう、どうしようもない優しさよ。
 お殿様は私にとって、絶望以外の人生があることを教えてくれた、ほとんど唯一の人だった。誰が何と言おうと、お殿様は私の太陽よ。

 まだ轟音の響く中、私は身を引きずるようにしてお殿様に近寄った。
 もう死んでる?
 間に合わなかったのかしら。だけど恐る恐る手を触れたとき、その体温と呼吸はしっかり感じ取ることができたわ。

 ああ、生きてる。

 例えようのない歓喜に、全身が貫かれる。
 抱き起すと、お殿様はうつろな目でこちらを見上げたわ。殴られた跡なのか、目は黒々とした隈に覆われてる。
 誰だ、とお殿様は聞いてるように思えたわ。

 私は込み上げる涙とともに、ささやいた。
「楽にございます。ここにおりますのは、楽にございます」

 今、御殿が崩れ落ちる。濁流に呑まれ、消えうせようとしている。
 だけどそのときお殿様のお側にいられて、共に死ねるのなら、私にとってそれに勝る幸福はないわ。

 私はお殿様の顔を抱き寄せ、自分の頬を押しつけた。
「共に参りましょう。永遠に。暴れ川の中に」

 どん、と桁違いの爆裂音がしたのはそのときよ。一瞬、私たちの体も浮き上がったかのようだった。

「とうとう来たか」
 まだ廊下にいた二人の男は慌てたように両足を踏み広げ、天井を見上げたわ。
 だけど建物はそれ以上動かない。中根は確かめてくると言って走り出した。

「銃声にござる。お逃げ下され」
 遠くで中根の叫ぶ声がする。
「鉄砲組が寝返りました。林家老の到着にござる」
 
 何だって、と稲田は怒りの形相で振り返った。
「林は、寺に押し込めたゆえ、大丈夫だと申しておったではないか」
「申し訳ござりませぬ。囲みを破られたようにござる」
 
 中根が戻って来た。大勢の人の気配がする。
 私は顔を上げた。伊賀組の仲間の存在を感じる。きせが私の名を呼んでる。

「くそっ。何もできないあの男が」
 稲田はいまいましそうに膝を打ったわ。
「仕方がありません。ここは一旦逃げましょう」
 中根が稲田をかばうように誘い、ばたばたと人の足音が去った。

 まだ濁流の音はしてる。だけど気付けば風雨の音は止んでたわ。
 私はお殿様に肩を貸し、ふらふらと立ち上がった。まだ足には猛烈な痛みがあったけれど、希望が体を突き動かしてる。

「殿。ご覧ください。雨が上がったようにございますわ」
 白い霧の吹き込む廊下の空気を、私は目を細めて見上げてる。

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