第53話 由良の湊

文字数 3,116文字

 稲田家は蜂須賀家にとって、ただの家臣じゃなかった。

 そもそも両家の関係は、戦国の昔にさかのぼるそうよ。
 稲田家は代々、尾張守護代の織田伊勢守家において家老を務めていた。蜂須賀家は尾張の一国衆(くにしゅう)に過ぎなかったから、稲田家の方が格上だったってことね。

 だけど稲田家は主家に謀反の疑いをかけられ、当主や跡継ぎが切腹に追い込まれてしまった。そこで幼い稲田植元(たねもと)の身柄を預かって面倒を見たのが、かの蜂須賀正勝。
 植元は苦しい時に救ってくれた正勝に恩義を感じたし、正勝の方も植元を気に入り、次第に重用するようになったと言われているの。

 やがて二人は義兄弟の契りを結び、共に羽柴秀吉に仕えた。
 植元(たねもと)は大名になろうと思えばなれたのに、そうはせず、蜂須賀正勝への義を優先して正勝の息子、家政を支える道を選んだ。さらには蜂須賀家に与えられた阿波において国作りに励み、関ヶ原では蜂須賀家のために軍功を挙げた。

 ね? 稲田家とは蜂須賀家にとって、決して粗略に扱える家ではないのよ。
 もちろん創成期からは170年もの年月が経ってるし、稲田家は洲本仕置(すもとしおき)として淡路に常駐しているから、普段はすっかり忘れられた存在だった。
 でもここぞという時にはやっぱり稲田家が出てくる。
 私だって、お殿様のために稲田家を利用させてもらうわ。

 そして稲田家当代の九郎兵衛(くろべえ)にとっては、淡路の振興が何にもまして重要なこと。あの爺さん、洲本(すもと)に立派な港を作って、船の誘致をしたいらしいわよ?
 今回彼らが徳島に来たのも、お殿様に直談判するため。

 徳島藩主は参勤の途中でよく洲本に立ち寄ってて、その度に稲田家は家中を挙げて歓待してきたそうよ。だから稲田は、お殿様ともすっかり打ち解けているつもりで、自分が行けばすぐにでも話を聞いてもらえるものと思ってたらしいの。

 だけど長谷川たち徳島の重臣は、直接の交渉を許さなかった。
 彼らは投資をするなら阿波を優先したいわけだし、何より往年の重臣同士の確執があるのよね。
 そう、私、ぜーんぶ知ってるわ。伊賀組の情報収集能力を甘く見るんじゃないわよ。

 今、目の前にいる中根という男の目に、私は例の首元をちらつかせる。
「由良湊のお噂、お聞きしましたわ。淡路が栄えてにぎやかになったら、さぞすばらしいことでございましょう」

 中根は何気ない風を装って、私の方へ近づいてきたわ。
「さようにござる。お楽どのも、港や船にご興味をお持ちですか」
「ええ、そりゃもう」

 私は笑って、すかさず身を離す。さすがに息がかかるほどには近寄らないで欲しいわ。
「……港ができて、多くの人が淡路に来るようになったら、民百姓の暮らしも潤うことにございましょう。想像しただけで楽しゅうございますわ」

「さよう、淡路には重要な計画にござる」
 中根は懲りずに前のめりになってくる。
「しかれども長谷川家老は、まったく聞く耳を持って下さらぬ。これでは殿へのお目通りもいつになるのやら」

「んまあ、ひどいこと」
 私は呆れた顔を作って見せる。
「お目通りは叶わないかもしれませんわね。長谷川家老は、とにかく稲田様がご活躍なさるのが面白くないんですから」
 
「……」
 長谷川らに馬鹿にされた時の悔しい気持ちを思い出したのか、中根は唇を噛み締める。
 大丈夫よ、と私はこの大男にささやきかけた。
「稲田様の思いは、この私から殿にお話し申し上げておきます。このまま淡路に追い返されるようなことにはさせませんわ」

 ただの側室にそんな影響力があるのかと、この男は疑うかもしれなかった。
 私はさらに小声になって、話題を転じる。
「ねえ、長谷川家老が普請に反対する表向きの理由は、資金不足? それとも技術的な理由かしら?」

 中根ははっとしたように目を見開き、何度も瞬きをしながら、うなずいたわ。
「……りょ、両方にござる」
 こんな所で何ですが、と言いながら、彼は懐から一枚の紙を取り出し、腰かけの上に広げて見せた。

「ご覧くだされ。これが淡路島。由良はここ、島の東側です」
 中根は絵図の一端を指差した。

 由良は内海(大阪湾)と外洋(紀伊水道)の接点にあたるから、古代から海上交通の要衝として栄えてきたそうよ。
 だけど航行技術の発達した今、大坂発の巨大な樽廻船、菱垣廻船はわざわざ淡路に立ち寄る必要がなくなってしまった。淡路の人々にとっては、豪商たちの仕立てた船が目の前を通過していながら、みすみす逃していることが、我慢ならないらしいの。

 大船の方も、由良に寄りたくても寄れない事情がある。
 由良の湊口の形状からすると、南側からしか船が出入りできないし、砂が絶えず流れ込んでくるために海が浅いんですって。
 つまり大型船が入港できるようにするためには、掘抜(ほりぬき)(港湾浚渫(しゅんせつ))をしなきゃならない。蜂須賀家はすでに何度もその難題に挑み、失敗を繰り返してきたんですって。

「……つまり長谷川家老は、どうせやっても無駄だ、藩費を無駄にするだけだと決めつけておられるのです。しかし今どき、他藩でも掘抜は行われております。有能な職人を呼び、大規模にやれば、きっと道が開けるはずなのです」
 中根の語る声に、だんだん熱がこもっていく。
「由良に港を開き、風待ち潮待ちの地として大船を誘致すれば、船員たちの宿泊や飲食をまかなうだけでも地元は潤う。それに港を運営する大名家は、入港する船舶の積石数に応じて帆別銭(ほべちせん)碇銭(いかりせん)を課すことができる。蜂須賀家にとっても悪い話ではないはずだ」

「何という、素晴らしい計画でございましょう……!」
 半ばは本気で感動して、私は大きくうなずいた。
「それ、中根様がお考えになりましたの? このような優れたご提案、阿波ではちっとも出て参りませんことよ」
「おお。分かって下さるか、お楽どの」
 中根は本気で感動したのか、勢いに乗じて私の手を取ったわ。
「長谷川家老に、お楽どのの半分でも理解があればなあ」

「……とにかく」
 私はさりげなくその手をはずす。
「稲田様と中根様が、直談判する機会なら作って差し上げられます。長谷川など無視して、お上を動かしなされませ。淡路へ、手ぶらでは帰れませんでしょう?」
 お殿様は、まつりごとへの興味を失いかけてるの。これもまた、一つのきっかけになるかもしれない。一石二鳥ってやつよ。

 中根は不思議そうに私を見つめてきたわ。
「淡路のためにそこまでして下さるとは有難いことですが、率直にお伺いしたい。あなたは何をお望みなのですか」

 私も真顔で相手を見据え、やがてうなずいた。
 いいわ、率直に答えてあげる。

「……殿をお支えすべき重臣が、この国にはいないのよ」
 そうよ。あなたが稲田の一番の側近だと聞いたから、あなたに声を掛けた。それ以上の何でもないわ。
「だから稲田様が殿のお味方に付くよう、あなたが取り計らって。それが条件よ」
 阿波の君臣対立を知らないとは言わせない。稲田家としてはこれまで巻き込まれたくない一心で口出ししてこなかったんでしょうけど、覚悟なさい。あんたたちももう当事者よ。

「……なるほど」
 中根は目をぐるっと一巡させたけど、淡路の利益のためにはそう考えるまでもないことよね。この男は私に再び目を据えると、必要以上の熱を込めて宣言したわ。
「淡路の家中は、最初から殿に心服しております。お味方も何も、我らどこまでも殿に付き従うに決まっておりまする」

「賢明なご判断ね」
 私はうなずいた。これは一種の同盟関係よ。

 さて、本題はこれで終わり。私は立ち上がり、にっこりと中根に微笑みかける。
「ついでにもう一つお願い。いいかしら?」

 私は振り向いて奥御殿の建物を指差した。
「目障りな女がいるの。彼女、長谷川家老の縁戚なんですって」

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