第56話 平島公方の問題

文字数 2,949文字

 千松丸たちを解放してやり、今度はその使者を待つ。
 すると、一人の若い藩士がおずおずといった感じで入ってきた。見覚えのある顔だ。

 あ、とおれは声を上げた。
「そのほう、三浦大炊助(おおいのすけ)ではないか」
 たぶん江戸に着いたばかりなのだろう。若者の表情には、旅の疲れが滲み出ていた。
 しかも恐らく借り物なのだろう、着物が身体に合っていなかった。旅装を解いて大急ぎで身支度を整えてきたという様子である。
 
 とにかく噂をすれば何とやら。まさに先日、三浦の話が出たばかりだったのだ。阿波に帰国したらすぐに、この者を呼ぼうと思っていたのだが、その手間が省けた。

 平伏した三浦を前に、おれは思わず身を乗り出した。
「産科医の賀川(かがわ)玄悦(げんえつ)先生は、そちの親戚だと聞いたが、まことか」

「はあ……?」
 三浦は顔を上げたが、藩主からのいきなりの質問に完全に戸惑っている。
 無理もない。この男は別の用件を持って、大急ぎでやってきたのだ。だが三浦を寄越してきたのがあの長谷川家老かと思うと、正直聞きたくなかった。

 それより、である。
 賀川という医師は、近江彦根の地で非常に貧しい暮らしをしているそうなのだ。三浦にしてみれば、そんな伯父のことをおれがなぜ知っているのか腑に落ちないだろう。
 だが賀川は、胎児の正常胎位を発見した高名な医師である。この男になら、多くの妊産婦を救えるかもしれなかった。

 なにせ妊娠出産においては、数えきれないほどの女や赤ん坊が命を落としている。世の中は女たちに子を産めと強いておきながら、出産の時にはお前など死んだって仕方がない、そんなのは当たり前だというような風潮が依然としてあるのだ。おかしいではないか。

 彼女たちを救う道があるなら、何とかしたいと思う。そう考えるのが普通ではないのか? おれは藩主として、この問題を放置しておくつもりはなかった。だからこそ、すでにその道を邁進している医師には、しかるべき処遇を与えねばなるまい。

「……最近、彦根の家中と話をする機会があってな」
 おれはごほんと咳払いをする。いかにも千松丸の縁談のついでに出た話だったから、自分でも少し軽薄に思えて気が引けた。
 だがこれもまた、大事なまつりごとの一つである。
「賀川先生といえば立派なお方だと誰もが申しておるに、井伊家の方では特に援助をする気はなく、まして扶持を与えるつもりもないようじゃ。よってわしが召し抱える。徳島に来る気はないか、聞いてみてくれんか」

「え……ええっ。まことにございますか?」
 三浦は驚いた様子だったが、明らかに感激していた。
「あの貧乏医者を、お殿様がお抱え下さると? いや、何という……」
 しかしその直後、はっと口をつぐんだ。藩主の前での無礼に気づいたのだろう。
 三浦は慌てて畳に頭を付けた。
「も、もったいなき仰せにござりまする。恐悦至極に存じ上げ奉ります」

「良い良い。よしなに頼むぞ」
 鷹揚に応えつつ、おれは顎をしゃくった。相手が喜べば、こっちは満足だ。
「ま、一応そちの用件も聞くとしようか」
 三浦はそのために、わざわざ国から出てきたのである。聞いてやらねばこの男が可哀想というものだった。

 三浦は長谷川から預かったという書状を取り出した。
 大切そうに頭上に掲げ、おれに差し出すと、すぐに後ずさって再び平伏する。

 おれは書状を手に取り、無造作に裏返した。
 長谷川越前守の名が記してある。おそらくは例の平島公方(ひらしまくぼう)の増禄について、何とか認めてやって欲しいという要望だろう。

 そう。平島公方から書状が届いたのは、おれが病気療養と称して徳島を発つ直前だった。

 実は、阿波の那賀郡平島には、足利将軍(第十代足利義稙(よしたね))の末裔が居住しているのである。平島を苗字とし、その当主は俗に平島公方と称せられている。尊い血統ゆえに阿波では賓客の扱いを受けており、蜂須賀家からも敬意を込めて毎年百石を贈ってきた。

 問題の、その書状を送ってきたのは、平島家の当主、左衛門という人物だった。おれは会ったこともない男だ。
 だから読んでみて、驚き呆れた。平島公方は「百石では足りぬから増禄してくれ」と何の根拠もなく要求してきたのである。

「こいつ、何様のつもりじゃ。挨拶に来たこともないくせに」
 話にならんとばかり、おれは書状を長谷川に叩き返した。しかし長谷川も賀嶋も膝を進め、激しく抵抗してきたのである。
「公方様は、民衆には根強い人気がございます。都の公家衆とも親交が深く、徳島藩としては無視できませぬ」

「ならば、これは良い機会じゃ」
 おれは二人をじっと見据え、断言した。
「わしに臣礼を取るなら増禄に応じてやると、こいつに言ってやれ」
 平島公方など、おれにとっては邪魔な客人でしかない。文句があるなら、阿波からさっさと出て行けば良いだろうが!

 そのことがあってから、まだ数月。
 あいつらは、また蒸し返してきたのか? おれは認める気などないぞ。

 だがその考えは甘かった。改めて長谷川の書状を読み進めるうち、おれはあっと声を上げそうになった。
 読み違いかと思ったが、再読しても同じである。あまりのことに言葉がなかった。自分の顔がかっと紅潮するのが分かったが、どうしようもない。

 長谷川越前はこのおれに無断で、すでに平島公方の増禄に応じてしまったのだ。
「事後承諾で申し訳ないが、殿のご裁可を頂きたい」
 との文面である。

 おれは嵐のような怒りを抑えつつ、ゆっくりと書状から顔を上げた。
「……三浦。そちはこの用件を知っておったか」
「は、はい、あの……」
 先ほど喜びを露わにした三浦だったが、早くもおれの怒りを察知したらしく、震えながら再び平伏した。

「馬鹿者が。こんなふざけた物を持ってきやがって!」
 おれは書状を三浦の顔に向かって投げつけた。ばさっと音がして、紙は畳の上に落ちた。
「わしの命に背いて、国家老が勝手に処置をした。そちはその国家老に従って、のこのこ江戸へとやってきた。この意味が分かるか」

「も……申し訳ござりませぬ」
 三浦は可哀想なほど平身低頭している。
 もちろん三浦が悪いのではないことぐらい、おれにも分かっている。

「もう良い。下がれ」
 自分の声に張りがなくなったのを感じた。
「長谷川、賀嶋の両名には相応の処分を覚悟しておけと申し伝えよ」
 三浦は蒼白になり、何ら逆らうことなく部屋を辞して行った。

 彼の足音が去ってから、おれは佐山、と声を発した。

 どこで聞いていたのかは分からない。佐山市十郎はすぐさま隣室へ駆けつけ、縁の前に手をついた。相変わらず不気味な男だ。

 この男に苛立ちをぶつけたい気持ち。それをどうにか抑え、おれは静かに命を発する。
「伊賀組で手すきの者はおるか」
「は」
「あの三浦の後を追わせよ。長谷川の屋敷で妙な話し合いが持たれぬとも限らん」
 
 言い終えると同時に立ち上がろうとしたとき、何ということだろう。急に目まいがして、おれはがくりと膝を付いた。
「殿……!」
 佐山が慌てて駆け寄り、おれを助け起こそうとする。まったく、何をしているのだ。こんなことをしている場合ではないのに。

 吐気を催したせいで、おれは何度も唾を飲み込まねばならなかった。
「いいから行け。そのほうも阿波へ向かうのじゃ!」
 おれは怒鳴りつつ、佐山の手を振り払った。

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