第68話 稲田の言い分

文字数 2,211文字

「殿は、ご出座あそばされたか」
 机から顔を上げる余裕もなかったが、私は廊下に控える茶坊主にそう聞いた。
 即座に答えが返ってくる。
「はい。書院の間にいらっしゃいます」
「すぐに伺うと伝えろ」

 この稲田九郎兵衛(くろべえ)、今は阿波と淡路、二国に目を配らねばならない。七十を過ぎた身には、過酷な忙しさだ。
 時おりやってしまう「うっかり」を年齢のせいにできるとは思っていないが、もう少し配慮というものがあっても良いのに、と言いたくもなる。誰も彼も、この私ばかりを当てにして!

 切りの良いところで筆を置き、私は机に手を付いて立ちあがった。
 藩主重喜(しげよし)公は、この私の再三の督促に応じてようやく徳島に帰って来られた。話しておかねばならぬことが山積している。

 当初はお殿様のご病状を聞くにつけ、確かに療養もやむを得ぬと思われた。

 しかしあの、どんちゃん騒ぎは何だ。初めて(かご)の別邸とやらに足を運んだとき、私は呆れて言葉もなかった。
 お殿様はことのほか元気に遊び暮らしていて、傍らにはあの蓮っ葉な側室。同年代の若者がその二人を取り巻いて、なかなか意気軒高である。
 田舎にぜいたく品を運ばせて生活を楽しみ、藩政を左右する重要な会議は風呂場の横、脱衣所のような部屋でダラダラとやっている。

 一部の若者による暴走だ。
 阿波は一体いつから、こんな風になってしまったのだろうか?

 この国の現状ときたら、藩主が風呂で遊んでいる場合ではないのである。
 最近の阿波では、特に出水(でみず)がひどかった。淡路島でも水害が起こることはあるが、阿波本土の河川の氾濫はことに大規模で、被害も甚大である。

 生命財産を奪われるのは、百姓町人に限らなかった。最近では立派な士分の者が生活の基礎を失い、切羽詰まって犯罪に手を染めるようなことも起きている。
 山田織部は確かに評判が悪かったが、災害への備えの大切さは認識していた。彼が生きていたら、もう少し事態は違っていたのではないか。

 私はお殿様から淡路島で行ってきた善政を認められる形で、新たな仕置家老として阿波にやって来た。しかし、長年の経験を積んできた私をもってしても、この傾いた国を立て直すのは容易なことではない。
 ただでさえ借金まみれの阿波に、追い打ちをかけるような天災の数々。村落は疲弊し、人心は荒れている。どこから手を付ければ良いのか分からないほどだった。

 そこでまずは、お殿様の発した倹約令をしっかりと領内に浸透させることに徹した。行事はご公儀と関係がなければすべて中止させ、城内に倉を設けて穀物を備蓄、困窮した家臣には藩米売却で得た金を貸し付けた。

 今は藩を挙げ、御鷹場(おたかば)とされていた原野を切り拓いているところだ。同時にそこで新田開発を進めている。
 すべてにおいて稲田家の名前はできるだけ出さず、あくまでお殿様の名で進めた。とにかくあのお方を、しっかりとした為政者に育てねばならないからだ。

「運の悪いお方であったな」
 私は側近の中根にそう漏らしたことがある。

 お殿様がいかに改革への情熱をお持ちでも、徳島藩はそれを実現する体力を持っていなかった。何しろ八代宗鎮(むねしげ)様の時代の、日光山修復のお手伝い普請がいまだに響いている。私自身がその時の総奉行だったからよく分かるのだが、御家はずいぶんと無理をして借金を重ねてしまったのだ。

 つまり重喜公は問題だらけの藩を押し付けられた、という言い方もできるのである。

 すぐに結果を出せないからと言ってあのお方が悪いとまでは言えないし、だいたい若者が経験不足で未熟なのは当たり前の話ではないか。
 むしろ支えるべき阿波の重臣がその役割を怠ったのだ。私はその穴を少しでも埋めてやるべく、ひた走ってきたわけである。

 が、一方で蜂須賀重喜というお殿様にも欠点が多かった。
 あの、藩主自らが起こした反逆が、多くの家中の目にどう映ったか。果たしてご本人は分かっておられるのだろうか?

 抑圧されてきた人々の感情が爆発する。それは制御が利かないという意味で大河の氾濫と似たようなものだった。
 家中はそれぞれに、自分たちが力を盛り返す好機ととらえたわけである。阿波でさえそうなのだから、淡路は余計にそうだった。他人の都合、他人の思惑といったものが、まだまだあの若い藩主には見えていない。

 実態をよく見極めようともせず、自らの狭い視野で物事を推し進めようとするお殿様の強硬さ。私も正直、辟易しているところだ。そして林建部ら若い家老たちは、まったく用をなしていない。彼らはお殿様の「友達」だから引き上げられたに過ぎないのだ。

 昔、江戸に住んでいた頃のあのお方について、実は私も少しだけ聞き知っている。
 佐竹の部屋住みのお坊ちゃん。とかく評判が悪かった。高貴な身分でありながら、ごろつきのような集団と平気で付き合い、下町をうろついていたのだ。

 もちろん若い頃は、誰しもそういうことがあるだろう。しかしその頃の奔放さを、阿波のお殿様というお立場にもなって引きずられているのはいただけない。
 男子禁制のはずの奥御殿に、男の仲間を引き入れているし、素性の怪しいあの側室の言うことには何でも従うと来ている。
 お殿様にとってはそれも「ご改革」の一環のつもりかもしれないが、いずれも風紀を乱すみだりがましい行為に他ならないではないか。

 あれこれ思い出すと、ため息しか出てこなかった。
 それでも気を取り直し、私はお殿様の御座所へと歩を進める。

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