第29話 誓いの言葉

文字数 1,698文字

 市十郎は山田諫書(かんしょ)を返却してきたけれど、それとは別にもう一枚の紙を差し出してきた。
「ここに、全員の署名と誓詞がござる」

 私もお殿様も身を乗り出して、その文面に見入ったわ。
 すごい。確かに御目付役たちの名がずらり並んでる。しかもお殿様に忠誠を誓う文言が付されてる。

 どうやらどの藩士も、旧格を守るばかりで新法は一切駄目という山田諫書の内容には反発を覚えたようね。ガチガチだった蜂須賀家の家中に、大きなうねりが起き始めてる。

 市十郎は自信たっぷりに付け加えた。
「御目付役一同が旗幟を鮮明にすれば、配下の組織の動向も決まります。もっとも、伊賀組に関してはなぜか説得するまでもなく、殿に付くと決まっていたようにございますが……」
 と言うと、私にとがめるような視線を寄越してきたわ。

 私はふんっと顔を背けてやった。
 あんたの都合なんて知ったことですか。上役だろうが何だろうが、伊賀組は独立組織だもの。いちいち動向を報告する義務はないわ。

 だけどお殿様は素直なものね。感無量っていう面持ちで誓いの言葉を見つめてる。
「いや、よくやってくれた。佐山。礼を申すぞ」
「お言葉、痛み入りまする」

 市十郎ががばりとひれ伏すと、お殿様はさらなる誉め言葉をお与えになった。
「さすがは佐山じゃ。頑固な阿波の者がいざ覚悟を決めたのは、そのほうの説得の仕儀がよほど良かったということであろうのう」
 それはもう、私なんかが口をはさむ余地のないほど、二人の間には信頼の念が満ち満ちてたわ。

 だけど心配した通りよ。その後、連日のように市十郎は奥御殿へ召し出され、お殿様と話し込んだ。他の女中に聞かれぬよう人払いをし、私を含めた三人で密談をしてるみたいになっちゃうの。まったく困った状況よね。

 相談の中、お殿様は佐山に一枚の紙を差し出した。
「試みに諫書に対するわしの存念を書いてみたんだが、どうかな? 佐山が推敲してくれ」
「ご無礼を」
 市十郎は一礼して紙を受け取り、じっとそこに見入ったわ。

 それは「存寄書(ぞんじよりしょ)」と題された書付だった。お殿様はこれを皆の前で読み上げて、家老衆との対決に臨むおつもりなの。

「いや……さすがにございます」
 しばらく後、市十郎は驚嘆の目を上げた。
「非常に的を射た文章にござる。殿の学識の高さがよく感じられまする」
「世辞はいいよ。まずいところ、言葉が足りぬところは、そちが直せ」
「とんでもない。このままでもご家老の諫書などより数段上にござる」

 市十郎と話し合っていると、お殿様がどんどん自信を得ていくのが分かる。会話の最中、次第に前のめりになっていくのよね。
 なあ、とお殿様はすがるように市十郎に問いかける。
「目付役の面々も出席するんだろ?」
「もちろんにございます。殿にもしものことがあってはなりませぬゆえ、心して護衛に当たります」
「まさかとは思うが、準備は万端整えねばな」
 お殿様は顎をさすった。

 そうなのよ。織部も他の家老も、あるいは彼らに味方する藩士も一応は侍だもの。城中での抜刀はもちろん禁じられているけれど、かっとなって、いきなり脇差をもって襲いかかって来ないとも限らない。

「そのほうらがいてくれるだけで心強い。よろしく頼むぞ」
 お殿様の機嫌は至って上々。だけど私、内心では歯がゆくて仕方がなかった。
 だって悔しいわ。私は女だから、評定の場に出て行けない。どう転んでも、その場でお殿様をお守りすることはできないのよ。

 だからこの男にすべてを託すしかなかった。
 昔とは主従が逆転した市十郎に向かい、私は冷やかに言葉をぶつけてやったわ。
「警固役だって、その気になれば発言できないことはないでしょ? 万が一、殿がお言葉に窮されたときには、あなたが出て行ってお助けしなさいよね」

 すると市十郎ったら、さっきまでの勢いを失ったかのように、もじもじと下を向くの。
「はあ……、あの、それがしは議論が苦手で」

 相変わらずの情けない態度。これから大変なのに、そんなことでどうすんのよ。
 私はそっぽを向いて言い捨てた。
「頼りないこと!」
「これ、佐山をいじめてどうする」
 お殿様が笑いながら私を叱りつけて、その場はお開きとなった。
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