第84話 小名木川のほとりにて

文字数 3,303文字

 明和七年。
 おれは江戸の小名木(おなぎ)屋敷の一室に寝そべっている。

 小名木川沿いに、大名や旗本の別邸が立ち並ぶ土地である。各藩が国元からの物資を運び上げる船着き場を持っているが、敷地内はどこも蔵ばかりで人は少なかった。
 荷役たちは船の到着時は忙しくなるが、それ以外は無聊をかこっているようだ。賭け事でもしているのか、時おり不穏当な声がこちらにも響いてくる。

 政治の表舞台から離れた、郊外の屋敷。おれはそこに軟禁されている。

 寂しい風が木々を揺らす以外、ここには音すら存在しなかった。目の前には手入れもされていない、荒れた庭があるが、あの壁の向こうだって亀高村の水田が延々と広がっているだけである。

 強制的に廃位に追い込まれた後、おれは大炊頭(おおいのかみ)を称している。
 阿波守ではなくなったのだ。もうお殿様と呼ばれることはない。

 何度か大暴れしたせいか、世の中からはすっかり気違いと決めつけられ、遠ざけられている。何を求めて生きていけば良いのか、おれにはもはや分からない。

 幕府はすべて「成来(なりきたり)作法」に戻すよう徳島藩に指示してきた。完全に離散してしまった山田家を除き、長谷川、賀嶋、そして稲田といった重臣の家々はすべて元通りだ。
 おれの下で仕置家老をしていた林建部は、おれと同様に押込めとなり、追放されたと聞いた。今はどうしているか、分からない。

 自分の改革の痕跡が、自分が生きた証が、どんどん消されていく。おれはどうにもできず、ただ遠くから見守るしかなかった。
 ここでは気分転換の外出もできない。無精ひげが生え、体は余計に肥満し、病は重くなるばかりだった。

 一方、嫡男の千松丸は、めでたく従四位下(じゅしいげ)阿波守に叙任した。
 同時に元服し、将軍家治から偏諱(へんき)を賜り、治昭(はるあき)と改名。
 徳島藩十一代藩主の誕生。ここだけはおれの希望が通った。ある意味、幕府は喧嘩両成敗という処置を取ったわけだ。

「大殿さま、大殿さま」
 中間の金吾という男が、息せき切って隠居所に駆け込んできた。この屋敷で下働きをしている、江戸の男である。

 おれは夕刻の光の中、日記を書きつづっているその手を止めた。
「……いかがした、金吾」
「これっすよ。例の怪文書」
 
 振りかざした金吾の手に、何やら一冊の本が握られている。見たところ、いかにも町家の女や子供が好みそうな人情本の類だった。

 金吾がやたらと興奮しているので、おれはとりあえず受け取った。安っぽい美濃紙の表紙に、一枚の題箋が貼られている。首をひねりつつ、読み上げた。

「……泡、夢……?」
『泡夢物語』というのが、その怪しげな本の表題だった。あちこちひっくり返してみたが、作者や版元が分かるようなものではない。

 席を外していた用人の平座衛門が戻ってきて、あっと声を上げた。
「そ、それは……」
「露天商が売っておりやしたぜ? 日本橋のたもとでさあ。おれ、絶対に大殿様に見せなくちゃって」
 金吾はいささか得意げなのに対し、平左衛門は焦った様子である。

「大殿様。そのようないかがわしい本をお読みになってはなりませぬ。こちらへお渡し下され」
 平座衛門が手を伸ばしてきたが、おれはどうしても読みたかった。無視して体の向きを変え、ぱらぱらと中をめくる。

 直筆による文字が並んでいた。つまり印刷ではなく、一冊一冊、手間暇かけて作られた写本、あるいは原本だろう。

 平左衛門は怒り心頭といった様子で、金吾を叱りつけている。
「まったくそのほうときたら。こんな物を持って参るとは、いかなる料簡じゃ」
「いいじゃねえっすかあ。大殿様が知らねえ方が、おれあ可哀想だって思うね」
 金吾は飄々と答え、不思議そうに平左衛門の顔を見上げる。
「阿波の旦那さん達は、何でそんなに隠し事をするかなあ?」

 もちろん平左衛門は収まらない。
「日本橋の、どこで売っておったのじゃ。地本問屋か。書肆の名は分かるか。その店を成敗してくれるわ」
「んなわけ、ねえって」
 金吾は欠けた前歯を見せ、けたけたと笑った。
「風呂敷の上に、ガラクタと一緒に並べてあったんすよ。店主はとっくにずらかってらあ」

 おれは当てもなくゆっくりと紙をめくっていたが、ふいに手を止めた。
「蜂須賀阿波守」とか「山田織部」といった実名が登場していたからである。

「これは……」
 一転して、おれは激しく紙をめくった。
 今さら気づいた。表題の「泡」は、「阿波」にかけた言葉だ。

 誰でも読めるようにとの配慮からか、ご丁寧にも漢字にはしっかりと振り仮名がつけられている。どうやら内容は阿波の大名、蜂須賀家の醜聞を面白おかしく語り、江戸の庶民に公開するものらしかった。最初に第四巻であるとの記述があることから、先行して一から三巻までも出来上がっているのだろう。

 もう隠しておけないと思ったのだろう。実は、と平左衛門は遠慮がちに語り出した。
「数年前から、このようなふざけた本が出回っていたようでございます。家中の者がもみ消して、ほとんどは焼いたはずですが……」

 江戸の庶民は噂好きである。中でも大名家の御家騒動は、芝居や興行でも取り上げられる恰好のネタだった。そうなってはまずいと、蜂須賀家では家中総動員で買い集め、次々と処分したというのである。

「そちは、中身を読んだのか」
 聞くと、平左衛門は拳で額を拭った。
「はあ……それは、まあ」
「別に怒りはせぬ。内容を教えてくれ」

 平左衛門はさんざん渋ったが、横から金吾が身を乗り出してきた。
「おれ、一巻から三巻までは読みましたぜ」
 顎で促すと、金吾は嬉々として語った。
 悪徳家老、賀嶋出雲が金を目当てに歴代の藩主を毒殺し、自分の傀儡となる重喜を養子に迎えるよう画策した。それは功を奏したが、重喜は意外と独立心旺盛で、今度は君臣対立が巻き起こり、阿波は大混乱。
 そんなあらすじだそうである。虚実入り混じった感はあるが、意外と正鵠を射た部分もある、といったところか。

「書いたのは内部の人間だろうな。知っておらねば書けるものではない」
 流し読みをしながら、思わずため息が出た。国元の事件など、徳島藩士でなければまず知り得ないだろう。
「それも、複数の人間が関わっている」
 途中から筆跡が変わっているのだ。そうとしか思えなかった。

 おれは見たような気がした。下町の、貧乏長屋。穴の開いた障子から差し込む斜陽の中で、筆を走らせる貧乏侍がいる。

 本が手元に回ってきたとき、自分の持つ情報を順次書き加えていったのかもしれない。存分に脚色もしただろう。
 彼は書いたのだ。この文章にありったけの思いをぶつけたのだ。権力争いに余念のない藩主や重臣たち。愚かな藩上層部への憎悪に燃えながら。

 おれは最後までざっと目を通した。蜂須賀重喜は女漁りを行い淫行に耽溺し、家臣達にも淫行を促したとある。しかも現場を見たかのように、事細かに報告している。あまりに悪意が満ちていて、むしろおかしくなった。

「よくこれだけ書いたものだ」
 半ば感心して言うと、金吾はあの、と少し興味本位に見上げてきた。
「これ、本当っすか。娘狩りとか、後家狩りとか、本当にやっちゃったんっすか」

 くっくっと、おれは笑い出した。
「本当だと思いたい者は、思うが良い。わしも、もはやどこまで本当か分からぬ」

 そのまま、おれは床の上にひっくり返った。平左衛門が呆れ顔で見下ろしている。いつまでも笑いが止まらず、やがて笑い過ぎて涙が流れた。

 そうだ。泡のような夢を見たのだ。いつかははじけて消える、はかないもの。阿波を良い国に導きたいというおれの夢は、最初からそんな運命にあったのかもしれない。

 その後、おれはひっそりと国元へ戻された。以後政治の表舞台に立つことはなかったが、一部の言い伝えによれば気の狂ったおれは大谷御殿に引きこもり、何かの幻影を追い求めるように淫行享楽の生活を送ったらしい。
 おれ自身は、よく覚えていない。

 大谷御殿はその後幕命により取り壊されたため現存しないが、朱塗りの長屋門の一部は四国八十八か所十七番札所、瑠璃山真福院井戸寺に移築され、現存している。

                                        了

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