第12話 甘い夢

文字数 2,071文字

 案の定よ。
 ある瞬間、お殿様を包む緊張感がふっと緩んだのが分かった。そのお体を強力に縛っていた糸が、急に切れたかのように。

 その豹変ぶりに、今度はこっちが驚いたわ。
 雑念を振り払ったかのように、お殿様は乱暴に私の体を組み伏せて、首筋にむしゃぶりついてきた。狩場で獲物に矢を放つ、その猛々しさを露わにして。
 
 やっぱり、と思った。どんなに偉い人でも、その正体はごく普通の男の人。たけり狂った熱情を抑える術はない。

 火照った息。波打つその体を抱き寄せ、私はちらっと横の襖に目を走らせた。
 あの向こう側にいるきせに、これでいいのよねって聞きたかった。

 お殿様の手が、荒々しく私の襟をはだけさせていく。それを自然に受け入れながら、私自身も少しほっとしてたわ。
 これは任務。失敗は許されない。
 でもそれより、これで組頭のお屋敷に戻らずに済むっていう安堵感がとにかく大きかった。あんなに居心地が悪い所はないわ。正直、二度と帰りたくない。
 この先どうなるのか分からないけど、後のことは後で考えればいい。雑念を振り切るように、私の方も身をくねらせて帯紐を解き、着物を全部脱ぎ捨てたわ。

 それにしても、襖一枚隔てた次の間に不寝番の女中が控えてるっていうのに、お殿様にそれを気にする様子はなかった。肌がぶつかり合う音も、狂おしいほどのあえぎ声も、どうせ他人が耳をそばだてているなら聞かせてやれとでも言うようだった。
 何もかも振り捨てた野獣が、激しく腰を動かしてる。汗が私の上に滴り落ちてくる。

 欲望が欲望を呼んだと言うべきか、私の方もかなり興奮してたわ。体の奥深くを獣が這いまわるような、私の体が炎で膨れ上がっていくような。こんなにも隷属を望み、組み伏せられるごとに快感を覚える自分の体が、自分でもよく分からない。

 愛欲の限りを尽くすのに遠慮なんかいらなかった。私の方も上体を起こし、裸のお殿様の首にかじりつくと、相手も反応して互いに唇を強く吸い合ったわ。

 これ以上はないほど濃密で甘やかで、至福の時間。
 刹那の享楽とは、きっとこれのことだと思う。安心とはほど遠い交わりは、死と背中合わせの、むき出しの命のやり取りだった。快楽の向こうから、暗く恐ろしいものが迫りくる。

 熱波のようなひとときが過ぎ去った後。
 私は汗もぬぐえずにいた。お殿様ったらぐったりして、私を手放さぬまま眠ってしまって、私は動けなくなってしまったの。
 どうしよう。主君の寝所で夜明かしは許されないって釘を刺されてたのに。

 だけどその寝顔の、無防備なことと言ったらなかった。
 赤ん坊みたいにかわいい、と思ったわ。
 誰も見ていないのをいいことに、私はそっとこの人の額に口づけをする。

 きせが言ってたわ。参勤交代をする大名なら最低限、江戸に正室を持ち、もう一人、国元にいわゆる「御国御前」を置くのが普通なんですって。
 でもまだ若いこのお殿様に側室はいないらしいの。
 だから奥御殿といっても、いざ来てみれば全部で十人ばかりの女中がいるだけの小所帯だった。私、あんまり質素だから驚いちゃったわよ。

 お殿様に頬ずりをする。髷から飛び出た後れ毛をなでつける。
 そういう人が、他のどの女でもなく、私を選んでくれたんだなあって改めて思った。不思議なことに、薄汚れた自分の中に一筋の清流が生まれたようだった。

 分かってる。
 この人は仇よ。自分がここへ来た目的を忘れちゃいけない。
 でもその恐ろしい日が来るまで、ちょっとだけ、うたかたの夢を分かち合ったっていいじゃない。泡がはじけるその時まで、私にも夢を見させてよ。

 ひとたび甘い夢を見始めると、現実からは目を背けたくなった。
 できればあんな話はなかったことにならないかしら。何もかもがうやむやになって、私はただこの人の側で平穏に暮らすことを許されないかしら。

 お殿様が自分のことを語り出したのは、その数日後のことだった。

 しとしとと雨音のする中、私はいつものように茶坊主の後についてご寝所へ向かったの。するとどういうわけかお殿様が先にいらしてて、夜具の脇であぐらを掻いていらっしゃった。
 そして手酌で一人、お酒を呑まれてたの。

 私が部屋に入ると、すぐに背後で襖が閉まった。その音が、早くお相手をしろという命令の声のように聞こえた。
 大急ぎで側へ寄り、お膳の上の徳利を手に取ろうとしたわ。だけどお殿様はさっと手を出し、それを制してきた。
「いや良い。それよりそなたも飲め」

 私は恐れ多くもその盃を受け取り、手ずからのお酌を受けたわ。
 本当は飲めない体質なんだけど、お酒好きなお殿様の相手をするなら、そんなことは言っていられない。
 目をつぶって必死に飲み込んだら、喉がかっと熱くなったわ。

 お殿様の方はもううっすらと赤くなって、少し酔ってらっしゃるようだった。立てた膝に徳利を持った方の肘を乗せ、ぶらぶらと揺らしてるわ。

 なあ、とお殿様はくだけた調子で私に話しかけてきた。
「この家、そなたは息苦しいと思うか」
 それが質問なのかどうかさえ、私にはすぐに分からなかった。
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