第34話 ぶっつぶしてしまえ
文字数 2,179文字
声を張り上げてみたが、それでもなお、その場の空気は変わらなかった。
みんな、もはや主君の怒鳴り声など聞き飽きてしまったという感じだ。どの階級にも無力感が漂っている。まったく阿波とは、どこまで手ごわい国なんだろう。
さすがに疲れを感じる。眉間を軽く指でもんだ後、おもむろにおれは立ち上がった。
「一旦、休憩!」
大広間の緊張の糸がぷつっと切れた。
誰もがほっとしたように立ち上がって伸びをしたり、隣の者と会話をしたりだ。ざわめきはだんだん大きくなる。
気を利かせた佐助が、先ほど膳部に命じて炊き出しをさせていた。
廊下に白い握り飯が次々と運ばれてくる。大皿は座敷の入り口で、運んできた中間 の手から座敷内の小姓たちの手に渡された。
おれはそこまでつかつかと歩いて行った。
「ご苦労」
小姓たちの頭越しに、中間たちをねぎらってやった。分かるだろ? おれは威張っているだけの嫌味な奴らとは違うんだ。座敷に入って来られない軽輩たちのことも、こうしてちゃんと考えている。
とはいえ中間たちは、曖昧な形で頭を下げるだけ。
どんな顔をすれば良いか迷っているんだろう。藩主直々の声掛けがあったからといって、自分たちは返答できないし、あからさまに嬉しそうな顔を見せるなどしては、座席衆やそこに連なる面々の心証を悪くしてしまう。
しょうがない。おれは肩をすくめ、席に戻りかけたが、そのときふと、壁際にいた賀嶋 備前 と目が合った。
刃物のような何かが一閃 した後、備前はその目を伏せた。
「……ったく。名君気取りも、いい加減にしてもらいたいぜ」
同年代と言っていい、この備前がつぶやくのは、聞こえるとも聞こえぬともつかぬ絶妙な大きさの声だった。
こういう時は、聞こえないふりをするに限る。おれは握り飯を一つ取りあげ、その場に腰を下ろしてぱくりと食いついた。おれが食べないと他の者が食べられないのだから、早いに越したことはないだろう。
それを合図に、我慢して待っていた座敷の者たちもめいめいに皿に手を伸ばし、むしゃぶりついていった。
「……殿、殿」
ざわめきの中、佐山市十郎がおれの背後に近づいてきた。
「何だ。佐山も早く食え」
「皆が殿に同意してございます。ご中老以下、本当は、殿の支持者ばかりです」
おれは咀嚼していた飯粒をごくりと飲み込んだ。本当は、の部分が気になるものだ。
「……その割に、わしを援護してくれる者はおらんものだな」
「はあ。あの、申し訳ございません」
佐山は頭を下げたが、おれはむすっとして指についた飯粒を歯でこそげ取った。
謝ってる場合かよ。そんな暇があったら、あの頑固な家老たちを何とかしてくれ。
だが再び身を起こした佐山は、ふいに話題を変えてきたのである。
「お楽様が、殿の体調を心配しておいでです。だいぶ長引いておられますゆえ」
やれやれ、と思った。さっきから佐山がちょこちょこ出入りしてるのは分かってる。こいつ、奥御殿に経過報告をしに行ってるんだ。
「佐山。そちはわしの警固役であるぞ。この場を離れて良いわけがなかろう。今、何を優先すべきか分かってんのか」
「いや、それがその……お楽様が、絶対に報告に来いと……」
佐山はもじもじと上体を揺らし、言い訳がましく述べる。
「逆らえば、殿に言いつけて、お前を御目付役から外してやると言われましたもので」
「そんなもの、まともに受け取る者がどこにおるか! このたわけが」
頭痛を覚えて、おれは頭に手をやった。この頼りなさときたら、どうだ。
「だいたい佐山、お前、出歩いとる余裕があるのなら、わしのために一発、この場で演説でも打ってくれ。だーれも、わしの味方をしてはくれんのだから」
佐山は一切の感情を見せず、ただうつむいている。
もちろんこいつに、そんな才覚はないだろう。責めても仕方がないというものだ。
代わりに、おれは手を叩いて佐助を呼んだ。
「今宵、奥渡りはない。女どもにはさっさと休むよう申し伝えよ。小姓組もそれが終わったらもう下がって良いぞ」
佐助が「では、お休みなされませ」と挨拶を終え、立ち上がった後も、佐山は背後で言葉を続けた。
「お楽様は、殿に一刻も早く帰ってきて欲しいと仰せです。今すぐには無理だとお答えしましたら、殿に従わぬ蜂須賀家などぶっつぶしてしまえ、と」
おれは唖然として、佐山を見返した。
「何だそりゃ」
「蜂須賀家はこれでおしまい。ご領地は将軍様に返上申し上げる。殿がそう仰せになれば、皆はびっくりして殿に従うのではないかと、そういうお話でした」
それだけは必ず伝えてくれと、佐山は厳命されてきたらしかった。
「へえ。面白いな。本当に意味が分かって申しておるのなら」
苦笑するしかなかった。会議が長引けば、誰もが疲れて当たり前だ。結論がとんでもない方角へ向かうこともあろう。
「あ、あの……」
佐山は真面目な顔のまま、遠慮がちに進み出てくる。
「これはそれがしの考えですが、そんなことは間違っても発言なさってはなりません。本気で受け取られては大変なことになります」
「そりゃそうだ」
一度はうなずいたが、いや、とおれはすぐに考え直した。
お楽の提案は、あながち見当外れではないかもしれない。
佐山とて反対するなら、どうしてそれを伝えてきたんだろう。こいつ、本当のところは、ぜひそうしてくれと言いたかったのではないか?
みんな、もはや主君の怒鳴り声など聞き飽きてしまったという感じだ。どの階級にも無力感が漂っている。まったく阿波とは、どこまで手ごわい国なんだろう。
さすがに疲れを感じる。眉間を軽く指でもんだ後、おもむろにおれは立ち上がった。
「一旦、休憩!」
大広間の緊張の糸がぷつっと切れた。
誰もがほっとしたように立ち上がって伸びをしたり、隣の者と会話をしたりだ。ざわめきはだんだん大きくなる。
気を利かせた佐助が、先ほど膳部に命じて炊き出しをさせていた。
廊下に白い握り飯が次々と運ばれてくる。大皿は座敷の入り口で、運んできた
おれはそこまでつかつかと歩いて行った。
「ご苦労」
小姓たちの頭越しに、中間たちをねぎらってやった。分かるだろ? おれは威張っているだけの嫌味な奴らとは違うんだ。座敷に入って来られない軽輩たちのことも、こうしてちゃんと考えている。
とはいえ中間たちは、曖昧な形で頭を下げるだけ。
どんな顔をすれば良いか迷っているんだろう。藩主直々の声掛けがあったからといって、自分たちは返答できないし、あからさまに嬉しそうな顔を見せるなどしては、座席衆やそこに連なる面々の心証を悪くしてしまう。
しょうがない。おれは肩をすくめ、席に戻りかけたが、そのときふと、壁際にいた
刃物のような何かが
「……ったく。名君気取りも、いい加減にしてもらいたいぜ」
同年代と言っていい、この備前がつぶやくのは、聞こえるとも聞こえぬともつかぬ絶妙な大きさの声だった。
こういう時は、聞こえないふりをするに限る。おれは握り飯を一つ取りあげ、その場に腰を下ろしてぱくりと食いついた。おれが食べないと他の者が食べられないのだから、早いに越したことはないだろう。
それを合図に、我慢して待っていた座敷の者たちもめいめいに皿に手を伸ばし、むしゃぶりついていった。
「……殿、殿」
ざわめきの中、佐山市十郎がおれの背後に近づいてきた。
「何だ。佐山も早く食え」
「皆が殿に同意してございます。ご中老以下、本当は、殿の支持者ばかりです」
おれは咀嚼していた飯粒をごくりと飲み込んだ。本当は、の部分が気になるものだ。
「……その割に、わしを援護してくれる者はおらんものだな」
「はあ。あの、申し訳ございません」
佐山は頭を下げたが、おれはむすっとして指についた飯粒を歯でこそげ取った。
謝ってる場合かよ。そんな暇があったら、あの頑固な家老たちを何とかしてくれ。
だが再び身を起こした佐山は、ふいに話題を変えてきたのである。
「お楽様が、殿の体調を心配しておいでです。だいぶ長引いておられますゆえ」
やれやれ、と思った。さっきから佐山がちょこちょこ出入りしてるのは分かってる。こいつ、奥御殿に経過報告をしに行ってるんだ。
「佐山。そちはわしの警固役であるぞ。この場を離れて良いわけがなかろう。今、何を優先すべきか分かってんのか」
「いや、それがその……お楽様が、絶対に報告に来いと……」
佐山はもじもじと上体を揺らし、言い訳がましく述べる。
「逆らえば、殿に言いつけて、お前を御目付役から外してやると言われましたもので」
「そんなもの、まともに受け取る者がどこにおるか! このたわけが」
頭痛を覚えて、おれは頭に手をやった。この頼りなさときたら、どうだ。
「だいたい佐山、お前、出歩いとる余裕があるのなら、わしのために一発、この場で演説でも打ってくれ。だーれも、わしの味方をしてはくれんのだから」
佐山は一切の感情を見せず、ただうつむいている。
もちろんこいつに、そんな才覚はないだろう。責めても仕方がないというものだ。
代わりに、おれは手を叩いて佐助を呼んだ。
「今宵、奥渡りはない。女どもにはさっさと休むよう申し伝えよ。小姓組もそれが終わったらもう下がって良いぞ」
佐助が「では、お休みなされませ」と挨拶を終え、立ち上がった後も、佐山は背後で言葉を続けた。
「お楽様は、殿に一刻も早く帰ってきて欲しいと仰せです。今すぐには無理だとお答えしましたら、殿に従わぬ蜂須賀家などぶっつぶしてしまえ、と」
おれは唖然として、佐山を見返した。
「何だそりゃ」
「蜂須賀家はこれでおしまい。ご領地は将軍様に返上申し上げる。殿がそう仰せになれば、皆はびっくりして殿に従うのではないかと、そういうお話でした」
それだけは必ず伝えてくれと、佐山は厳命されてきたらしかった。
「へえ。面白いな。本当に意味が分かって申しておるのなら」
苦笑するしかなかった。会議が長引けば、誰もが疲れて当たり前だ。結論がとんでもない方角へ向かうこともあろう。
「あ、あの……」
佐山は真面目な顔のまま、遠慮がちに進み出てくる。
「これはそれがしの考えですが、そんなことは間違っても発言なさってはなりません。本気で受け取られては大変なことになります」
「そりゃそうだ」
一度はうなずいたが、いや、とおれはすぐに考え直した。
お楽の提案は、あながち見当外れではないかもしれない。
佐山とて反対するなら、どうしてそれを伝えてきたんだろう。こいつ、本当のところは、ぜひそうしてくれと言いたかったのではないか?