第79話 稲田と対決
文字数 3,366文字
何ということ。
がん、と私は拳を戸に打ち付けた。普段は女たちを奥御殿に閉じ込めておくためのお杉戸だった。表役人たちは、緊急の時に開錠しておくといったような臨機応変の行動が取れなかったのね。
だけど私には、そこに強固な意志があるように思えたわ。一握りの強者が、弱者の声を封じ込めようとするあの見えない力。どんなに悔しくても悲しくても、黙って下を向くしかないようにさせる、あの恐ろしい力。その象徴がこのお杉戸であるような気がしたわ。
諦めてなるものか。
振り向けば、廊下の左側にはずっと雨戸が並んでた。いずれも風雨に打ち付けられ、激しい音を立てて揺れてるわ。
私は手近な一枚に手を掛け、渾身の力でこじ開けた。わずかな隙間から、目も開けていられないほどの突風と水が舞い込んできくる。
その隙間から、何とか外へと身を滑らせた。庭の木々は倒れそうなほど反り返り、そこら中を緑の葉や小さな枝がぐるぐると舞っている。
私は腕をかざし、飛んでくる物から身を守りながら、建物の外壁をつたい歩いた。そうやって、何とか表御殿側へ移動したわ。
だけど目を細め、遠くの方を見るともなしに見たとき、私は目を疑った。
見えないはずの、川向うの武家屋敷の家並が見えてるのよ。
城壁がない。
たぶん城壁が立っていたその地盤ごと、濁流に呑まれてしまったんでしょう。この御殿が川に崩れ落ちるのも時間の問題かもしれなかった。
たどり着いた先には、一枚はずれかかった雨戸があった。斜めに隙間が空いている。
中に入ると、表御殿の廊下は降り込んだ雨でずぶ濡れだった。
屋根からは間断なく雨漏りがして、いま私が入ってきた箇所以外にもはずれそうな戸がいくつもある。これじゃ、奥御殿の方がずっとましだったわ。倹約令のお陰で修繕もままならない徳島城の実態を、こんなところで目の当たりにした気分よ。
水を含んでしまった小袖の裾を私が絞っていると、ほとんど真っ暗な廊下の先から明かりが近づいてきた。最後の見回りなのか、男の役人が二人だった。
提灯で私の顔を照らし、彼らは驚いた様子だった。
「お女中だ」
「まだ残っておったのか。早う逃げよ」
私は袖から手を放し、切り口上で答えたわ。
「お殿様はどこ? 会わせなさい」
二人は顔を見合わせたけど、考えている暇はなさそうだった。すぐにまた私に向き直って言う。
「ここも危ないぞ。いいから早く行きなさい」
「そうだ。早く出るのだ」
「お殿様が避難したことを確認できたらね」
私は二人を睨みつける。
「中奥のご寝所の場所を教えて」
「中奥へは、わしらも立ち入りを許されておらんのだ」
苛立ったように、片方の男が答えた。
「この御殿、もうすぐ水が入ってくるぞ。わしらも、もう出る。共に参ろう」
もう片方の男が腕をつかんできたけど、私はその手を振り払った。
「放っといて。私は中奥へ行くの」
「これ、ならぬ」
男は血相を変え、私を取り押さえようとした。
その瞬間、ちょっと感じるものがあった。私は身を引き、相手の顔をまじまじと見た。
知らない男。
だけどこういう場合、普通なら女中なんか放っておいて、自分たちだけ避難しても良さそうなものよね。そうしないのは何か理由がある。
「あんたたちも稲田の手下ね?」
聞いた途端、刻 を無駄にしたと思った。稲田派の人間が、お殿様の居場所を教えてくれるわけがないじゃない。
男たちの肩越しに廊下の先が見えたとき、私は直感した。
たぶん、こっちの方角。
ここの廊下だけ天井が高いから、きっと格式の高い部屋へと続いてると思うの。私は息を詰めて床を蹴り、その場から跳躍した。
男たちを飛び越えて、私はふわりと着地した。
「え?」
男たちの間抜けな声が響く。たぶん二人は、私が急に消えたと思ったんでしょう。
「おい、こら、待て」
男たちが振り返り、慌てて追いかけてくる。私の手には小石がある。先ほど外に出た際に、拾っておいた物よ。
振り向きざま、彼らの足元を狙ってひゅっと投げた。
わっと叫んで、二人は派手に倒れた。その隙に、私は再び駆け出した。
怪我をしたかしら。ごめんね。でも私、ここで捕まるわけにはいかないの。
暗闇の中、右も左も分からなかった。脳裏に浮かぶのは、目を閉じたお殿様の面影だけよ。
「殿! 殿! お返事をなさってください!」
叫びながら、片っ端から襖を開けて進んで行く。
次の部屋、また次の部屋。
やがて少し広い座敷に出たと思ったそのとき、私は突然何かにぶつかりそうになった。
一人の大男が、通せんぼをするように私の目の前に立ちはだかっている。
「何の騒ぎだ」
見上げると、見まごうはずがない、中根玄之丞だった。手燭を持った相手の方も、私の顔を見てすぐに片眉を上げる。
「おやおや。これは、どなたかと思ったら」
私は逆に希望を持ったわ。この男がいるということは、お殿様の部屋は近いはずよ。
「殿に会わせて。そこにいるんでしょ」
「おられませんよ」
素っ気なく中根は言う。天井板がみしみしと今にも割れそうな音を立て、中根はふとそこを見上げた。
「にしても、大変な嵐ですねえ。かつてないほどだそうです。川の水がもうそこまで来ていますよ。ここまで残っておられるとは、あなたも酔狂なもんだ」
中根は余裕を気取ってうすら笑いを浮かべてるけど、その背の向こうに一領の襖をかばっているのは確かだった。
「わたしは御殿の最後を見届けねばなりませんが、あなたにはそんな義務も責任もない。さっさとお逃げになるのが、賢い選択だと思いますがね」
「それなら、その中の部屋を見せて。誰もいなければ言う通りにします」
押しのけて入ろうとする私の肩を、中根はぐっとつかんで遠ざけた。稲田の爺さんの護衛だけあって、骨が折れそうなほど強い力だった。
「ここから先は、一歩もお入れするわけには参りません」
「どうして。おかしいじゃない。何を隠しているの」
私は中根の手を離れると、胸の懐剣を取り出し、鞘を抜き払った。
「あなたを殺してでも、中に入るわ」
「なぜお分かり頂けないんでしょうね。わたしは、あなたのような女性を斬りたくはないんだが」
中根の方も手燭を置くと、刀の柄に手を掛け、もう一方の手の親指でぐいと鍔を押し上げた。
無音だけど、鯉口が切られたのが分かったわ。普段の城中なら、ここまでやればもう切腹。中根もまずは脅しをかけたというところでしょう。
だけど、本気で斬るつもりがないとまでは言いきれなかった。この男は私に恨みがある。私の魔力に引っかかったという後ろめたさに蓋をするため、余計に残忍な方向に走るかもしれなかった。
女の懐剣では、太刀に敵うはずがなかった。機先を制するより他になかったわ。
私は思い切って敵の懐へ飛び込み、その喉元に切っ先を突き立てた。
と思ったら、直前で中根の片手に止められてた。
だけど、男の首筋からはわずかに血が流れてるし、私を押さえつける中根の手はぶるぶると震えてたわ。
私は全力で懐剣をねじ込もうとしたけど、どうにもその先へと進めなかった。
やがて気合をいれる声とともに、中根は渾身の力で私を突き飛ばした。私は床の上に転がり落ち、懐剣を取り落としてしまった。
こうまでされては、再び襲うことは難しかった。中根はそれを分かっていて、余裕の笑みを浮かべるの。
「……ここまで来られただけでも、褒めて差し上げましょう。大した胆力だ」
すぐに身を起こし、剣を拾い上げて、今度は横から飛びかかってみたけど、中根は薄笑いとともにあっさりと避けたわ。
「おやめになった方がいい。その程度で何ができるというものでもないでしょう」
でもそう言いつつ、私の身のこなしの速さをあしらいかねているのが見て取れたわ。言葉とは裏腹に、この男に余裕はない。
行ける、と思ったその瞬間だった。
中根の方も素早く身を滑らせ、同時に太刀を抜き払ったの。
「おっと」
うっかり斬ってしまった、とでも言わぬばかりに中根が声を上げた。
そんなはずはない。
と思ったのに、私はああ、と自分の喉からうめきに近い声が出るのを聞いたわ。
中根の持つ太刀の先は、私の濡れて重くなった袖と裾を確かにかすってたみたい。着物の前見頃はぱっくりと口を開けてるし、太腿からは、だらりと血が垂れてきた。
がん、と私は拳を戸に打ち付けた。普段は女たちを奥御殿に閉じ込めておくためのお杉戸だった。表役人たちは、緊急の時に開錠しておくといったような臨機応変の行動が取れなかったのね。
だけど私には、そこに強固な意志があるように思えたわ。一握りの強者が、弱者の声を封じ込めようとするあの見えない力。どんなに悔しくても悲しくても、黙って下を向くしかないようにさせる、あの恐ろしい力。その象徴がこのお杉戸であるような気がしたわ。
諦めてなるものか。
振り向けば、廊下の左側にはずっと雨戸が並んでた。いずれも風雨に打ち付けられ、激しい音を立てて揺れてるわ。
私は手近な一枚に手を掛け、渾身の力でこじ開けた。わずかな隙間から、目も開けていられないほどの突風と水が舞い込んできくる。
その隙間から、何とか外へと身を滑らせた。庭の木々は倒れそうなほど反り返り、そこら中を緑の葉や小さな枝がぐるぐると舞っている。
私は腕をかざし、飛んでくる物から身を守りながら、建物の外壁をつたい歩いた。そうやって、何とか表御殿側へ移動したわ。
だけど目を細め、遠くの方を見るともなしに見たとき、私は目を疑った。
見えないはずの、川向うの武家屋敷の家並が見えてるのよ。
城壁がない。
たぶん城壁が立っていたその地盤ごと、濁流に呑まれてしまったんでしょう。この御殿が川に崩れ落ちるのも時間の問題かもしれなかった。
たどり着いた先には、一枚はずれかかった雨戸があった。斜めに隙間が空いている。
中に入ると、表御殿の廊下は降り込んだ雨でずぶ濡れだった。
屋根からは間断なく雨漏りがして、いま私が入ってきた箇所以外にもはずれそうな戸がいくつもある。これじゃ、奥御殿の方がずっとましだったわ。倹約令のお陰で修繕もままならない徳島城の実態を、こんなところで目の当たりにした気分よ。
水を含んでしまった小袖の裾を私が絞っていると、ほとんど真っ暗な廊下の先から明かりが近づいてきた。最後の見回りなのか、男の役人が二人だった。
提灯で私の顔を照らし、彼らは驚いた様子だった。
「お女中だ」
「まだ残っておったのか。早う逃げよ」
私は袖から手を放し、切り口上で答えたわ。
「お殿様はどこ? 会わせなさい」
二人は顔を見合わせたけど、考えている暇はなさそうだった。すぐにまた私に向き直って言う。
「ここも危ないぞ。いいから早く行きなさい」
「そうだ。早く出るのだ」
「お殿様が避難したことを確認できたらね」
私は二人を睨みつける。
「中奥のご寝所の場所を教えて」
「中奥へは、わしらも立ち入りを許されておらんのだ」
苛立ったように、片方の男が答えた。
「この御殿、もうすぐ水が入ってくるぞ。わしらも、もう出る。共に参ろう」
もう片方の男が腕をつかんできたけど、私はその手を振り払った。
「放っといて。私は中奥へ行くの」
「これ、ならぬ」
男は血相を変え、私を取り押さえようとした。
その瞬間、ちょっと感じるものがあった。私は身を引き、相手の顔をまじまじと見た。
知らない男。
だけどこういう場合、普通なら女中なんか放っておいて、自分たちだけ避難しても良さそうなものよね。そうしないのは何か理由がある。
「あんたたちも稲田の手下ね?」
聞いた途端、
男たちの肩越しに廊下の先が見えたとき、私は直感した。
たぶん、こっちの方角。
ここの廊下だけ天井が高いから、きっと格式の高い部屋へと続いてると思うの。私は息を詰めて床を蹴り、その場から跳躍した。
男たちを飛び越えて、私はふわりと着地した。
「え?」
男たちの間抜けな声が響く。たぶん二人は、私が急に消えたと思ったんでしょう。
「おい、こら、待て」
男たちが振り返り、慌てて追いかけてくる。私の手には小石がある。先ほど外に出た際に、拾っておいた物よ。
振り向きざま、彼らの足元を狙ってひゅっと投げた。
わっと叫んで、二人は派手に倒れた。その隙に、私は再び駆け出した。
怪我をしたかしら。ごめんね。でも私、ここで捕まるわけにはいかないの。
暗闇の中、右も左も分からなかった。脳裏に浮かぶのは、目を閉じたお殿様の面影だけよ。
「殿! 殿! お返事をなさってください!」
叫びながら、片っ端から襖を開けて進んで行く。
次の部屋、また次の部屋。
やがて少し広い座敷に出たと思ったそのとき、私は突然何かにぶつかりそうになった。
一人の大男が、通せんぼをするように私の目の前に立ちはだかっている。
「何の騒ぎだ」
見上げると、見まごうはずがない、中根玄之丞だった。手燭を持った相手の方も、私の顔を見てすぐに片眉を上げる。
「おやおや。これは、どなたかと思ったら」
私は逆に希望を持ったわ。この男がいるということは、お殿様の部屋は近いはずよ。
「殿に会わせて。そこにいるんでしょ」
「おられませんよ」
素っ気なく中根は言う。天井板がみしみしと今にも割れそうな音を立て、中根はふとそこを見上げた。
「にしても、大変な嵐ですねえ。かつてないほどだそうです。川の水がもうそこまで来ていますよ。ここまで残っておられるとは、あなたも酔狂なもんだ」
中根は余裕を気取ってうすら笑いを浮かべてるけど、その背の向こうに一領の襖をかばっているのは確かだった。
「わたしは御殿の最後を見届けねばなりませんが、あなたにはそんな義務も責任もない。さっさとお逃げになるのが、賢い選択だと思いますがね」
「それなら、その中の部屋を見せて。誰もいなければ言う通りにします」
押しのけて入ろうとする私の肩を、中根はぐっとつかんで遠ざけた。稲田の爺さんの護衛だけあって、骨が折れそうなほど強い力だった。
「ここから先は、一歩もお入れするわけには参りません」
「どうして。おかしいじゃない。何を隠しているの」
私は中根の手を離れると、胸の懐剣を取り出し、鞘を抜き払った。
「あなたを殺してでも、中に入るわ」
「なぜお分かり頂けないんでしょうね。わたしは、あなたのような女性を斬りたくはないんだが」
中根の方も手燭を置くと、刀の柄に手を掛け、もう一方の手の親指でぐいと鍔を押し上げた。
無音だけど、鯉口が切られたのが分かったわ。普段の城中なら、ここまでやればもう切腹。中根もまずは脅しをかけたというところでしょう。
だけど、本気で斬るつもりがないとまでは言いきれなかった。この男は私に恨みがある。私の魔力に引っかかったという後ろめたさに蓋をするため、余計に残忍な方向に走るかもしれなかった。
女の懐剣では、太刀に敵うはずがなかった。機先を制するより他になかったわ。
私は思い切って敵の懐へ飛び込み、その喉元に切っ先を突き立てた。
と思ったら、直前で中根の片手に止められてた。
だけど、男の首筋からはわずかに血が流れてるし、私を押さえつける中根の手はぶるぶると震えてたわ。
私は全力で懐剣をねじ込もうとしたけど、どうにもその先へと進めなかった。
やがて気合をいれる声とともに、中根は渾身の力で私を突き飛ばした。私は床の上に転がり落ち、懐剣を取り落としてしまった。
こうまでされては、再び襲うことは難しかった。中根はそれを分かっていて、余裕の笑みを浮かべるの。
「……ここまで来られただけでも、褒めて差し上げましょう。大した胆力だ」
すぐに身を起こし、剣を拾い上げて、今度は横から飛びかかってみたけど、中根は薄笑いとともにあっさりと避けたわ。
「おやめになった方がいい。その程度で何ができるというものでもないでしょう」
でもそう言いつつ、私の身のこなしの速さをあしらいかねているのが見て取れたわ。言葉とは裏腹に、この男に余裕はない。
行ける、と思ったその瞬間だった。
中根の方も素早く身を滑らせ、同時に太刀を抜き払ったの。
「おっと」
うっかり斬ってしまった、とでも言わぬばかりに中根が声を上げた。
そんなはずはない。
と思ったのに、私はああ、と自分の喉からうめきに近い声が出るのを聞いたわ。
中根の持つ太刀の先は、私の濡れて重くなった袖と裾を確かにかすってたみたい。着物の前見頃はぱっくりと口を開けてるし、太腿からは、だらりと血が垂れてきた。