第66話 生まれる

文字数 2,279文字

 唐突に陣痛が始まったのは、暑さが一段落して庭で鈴虫が泣き始めた頃のことだった。

 腹の大きさからすると、お産はまだ先だと思っていたし、いよいよその時が迫ってきたら徳島へ帰るつもりでいたの。
 だから私、きせも呼んでなかった。完全に準備不足だわ。

「何じゃ……生まれそうなのか、お楽。ああどうしよう」
 お殿様はおろおろと部屋の中を行き来する。だけど焦ったって仕方がないわ。私は一人、ふうふうと呼吸を繰り返しながら、ぼろ布を重ねて敷き詰めた。
「大丈夫です、一人で産めまする」
 そうよ、細長い息を吐き続けながら、気を落ち着かせればいいはずよ。

 他人の出産の付き添いなら、伊賀組の屋敷で何度か経験がある。
 だいたいの流れは分かってる。その痛みに自分が耐えられるかどうか、だけよ。

「お、おい、やはり誰か呼んだ方が良いのではないか」
 お殿様は部屋を出たり入ったりしながら不安そうにおっしゃったけど、その時すでに私には返事をする余裕がなかった。

 痛みには抵抗せず、素直に受け入れるようにした。その方が苦しむことなく、するっと産めるものだって聞いたことがあるから。
 そのせいなのかどうか。意外なほど早く、痛みの波が大きくなったわ。

 呼吸もそれに合わせ、長く深く、大きくしなければならなくなる。私は苦しさに目を回してしまった。
 だけどちょっとでも油断をすると波に呑まれてしまい、全身が割れるように痛みだすの。

「栄蔵はまだか。まだ戻って来んのか!」
 お殿様が中間の名を叫びながら、部屋を出て行ってしまった。
 私は一人にされてしまったようだけど、それならそれでいいわ。お腹の赤ちゃんと一緒に頑張ればいいんだもの。

 だけど。
 やがて襖がするすると開いて、知らない女が部屋に入ってきた。
 たぶん百姓女でしょう。土のにおいのする、肥えた体格の女だった。

 栄蔵という中間が近くの村まで走り、産婆を頼んでくれたのよ。
 お殿様はなおも心配そうに突っ立ってたけど、その太った女は不敵にもお殿様の胸をぐいぐい押して、廊下へ出してしまったわ。

「穢れの場やけんね」
 だみ声で拒絶の意を示し、女はお殿様の鼻先でぴしゃりと襖を閉めた。
 そして今度は私の近くに腰を下ろし、脚を開かせ、慣れた手つきで中を確かめる。

「ふん。だいぶ、開いとるね。すぐにでも産めるでよ」
 荒っぽい手つきだけど、その女が分娩の経過に詳しいのは感じられた。気持ちの上ではほっとしたわ。

 私は女に言われたことに素直に従い、呼吸を整えた。
 そして合図とともに、今度は一転して腹に力を込めたわ。
 痛みで全身がぶるぶる震え、噛みしめた歯の間からうめき声が漏れてしまう。

「はい、もう一度」
 やり直しを命じられ、もう一度大きく息を吸う。苦しくて気が遠くなる。

 何度か本気でいきんで、ようやく小刻みな呼吸が許されるようになったとき、何かがぬるりと抜け出る感覚があった。
 そのとき、かすかに産声を聞いたわ。
「おめでとうがーす。かいらしい、姫君様にがーす」
 女がひれ伏して言った。

 私は呆然と天井を見つめた。
 確かに苦しかったけど、思っていたよりずっとあっけないお産だったわ。

 胎脂のついたままの赤子がさっそく横に寝かされる。私はまだ横になってはいけないようで、壁にもたれかかったまま。
 気づけば百姓女は三人ばかりに増えてて、産湯の準備がまだだったのか、三人ともバタバタと駆け回ってる。

「早かったじゃなあ。ほんに御安産でござった」
 湯を張った盥を持ってきた女がそう言ってくれた。
 褒められたのかしら? 私は汗だくで、乱れた髪を直す余裕もなかったけれど、わずかに笑い返すことはできた。ほんと、私みたいな女でも、やればできるのね。

 部屋の隅で赤ん坊が清められているとき、お殿様が遠慮がちに入ってきて、私の横に座った。男が入ってくることを気にしていた女たちも、もう口うるさいことは言わなかった。

「……お楽よ、頑張ったな。無事で良かった。どうなることかと思うたぞ」
 心底ほっとしたようにそう言い、お殿様は懐から手拭いを取り出すと、お手ずから私の汗を拭ってくれた。

 女の一人が布にくるまれた赤ん坊を差し出し、お殿様は恐る恐るといった感じで抱き取った。
 手馴れていない様子。落っことしそうだわ。

 だけど、私は意外な気もした。私は初めてのお産だけど、お殿様にとってはもう五人目の子よ? 赤ん坊には慣れていると思っていたのに。
 しかも赤ん坊を見つめるお殿様の頬に、はらりと一筋の涙が流れたの。

「……殿、いかがなされました?」
 私は心配になったわ。どんな問題が起きたのかしらって。この子をお気に召さなかったのかしらって。

 だけど、お殿様は笑った。うれしさを隠そうともしないで、今この瞬間を全身で感じ取っているとでもいうご様子で。
「江戸では一度も、赤子を抱かせてはもらえなんだ。温かいものじゃのう。かわいいものじゃのう」

 女たちにも見られてる。お殿様もそれに気づいたのか、慌てて涙を拭い、赤ん坊を抱き直したわ。
「初めての女の子じゃ。これほどの感動があるだろうか」

 私が赤ん坊に初めて乳を含ませている間、お殿様がニコニコ顔で言い出した。
(れん)という名はどうじゃ? 高貴な感じがするだろう? この子は、そうじゃな、公家にでも嫁がせてやるか」

 私も胸がいっぱいだった。
 (れん)姫。素敵な名前!
 
 ああ、こんなに喜んでもらえるとは思わなかった。確かに江戸の伝姫様がお産みになった御子は、全員男子だったって聞いているわ。男の子、男の子と思い続けてきたけれど、私は女の子を産んで正解だったんだ。

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