第65話 夜の散策
文字数 2,084文字
月明かりを頼りに、私は一段ずつ慎重に歩を進めていく。
だけど降り立った所は、期待したような美しい砂浜なんかじゃなかった。
じめじめした湿地帯と、険しい岩場しかないみたい。快適とは言い難い所だけど、今降りてきた石段をまた上る気にはなれなかった。
それに、すぐそこに大きな岩があるの。あの向こうは歩きやすい所かもしれないじゃない?
私は迫り出してきた腹をかばいながら、ゆっくりと歩き出した。丸石がカタカタと音を鳴らす。不安定で何とも歩きにくいけど、ここで転ぶわけにはいかなかった。
大岩を回り込んだ、そのとき。
陰に座っていた佐山市十郎が驚いたように振り向いた。
嫌だ。
私は顔を背けた。こっちだって驚いたわよ。こんな所で鉢合わせしちゃうなんて。
市十郎は傍らの提灯を持ち上げたわ。
「……こんな時分に、どちらへ」
ふん、と私はうつむいたまま鼻を鳴らす。
「あなたこそ、宴に出ずに良いのですか? 殿にご加増を賜る、またとない機会でありましょうに」
そうよ。今回のことで、主君派の藩士は軒並み出頭を遂げたわ。本来なら市十郎はその筆頭にいてもいいはずなのに、何をやってるのかしら。
相変わらず、愚鈍な男だと思う。完全に捨て置かれてるくせに、本人はそれをどうしようともしないんだから。
思わず言いたくなる。剣戟がちょっと得意だからって、今の時代あんまり役には立たないじゃない。もっと上の人間に取り入る方法を考えたらどうなのって。
でも、こんな男と話しても仕方がないと思った。
黙って再び歩き出したら、市十郎は提灯を取り上げ、心配そうな顔つきでついて来たわ。
月が煌々と輝いていても、やっぱり今は夜。市十郎は少しでも、私の足元を照らそうとしてくれてるようだった。
大きなお世話だと思う。
でも確かに足元は泥で汚れているし、さっきから何度もつまづきかけてる。灯りが欲しいと思ったのは事実よ。でも市十郎に体を支えてもらうような事態は避けなくちゃ。
先が見えたところで、立ち止まった。
何だ。この先も、ずっと岩場が続いてるだけじゃない。
私は盛大なため息をついた。悔しいけど、散策を楽しむどころじゃないわね。
特に見るべきものもない暗い海。かすかに音を立て、闇の中で上下を繰り返す波打ち際に、私はじっと目をやった。この無表情な海に、たまっていたものを全部吐き出したかった。
「奥様とは、うまくいってるの」
佐山が気遣わしげなのが腹立たしくて、私は声を荒げた。こんなことを聞くつもりはなかったのに、私は何を言っているんだろう。
残酷な質問ね。この男が幸せそうにしているのなんて、一度も見たことがないもの。
たぶん家庭で心が休まることはないんでしょう。市十郎の表情はいつも疲れに毒されているように見える。
だけどね。
唇を噛み締める市十郎を、私は最大限の憎悪とともに振り向いた。
だけど、そのためにあなたは私を捨てたのよ? 私を都合の悪い女と断定して、あなたは無情に踏みにじったのよ?
奥さんとうまくやるのは、この男の義務だと思う。そうよあなた、自分の醜悪さを認めなさいよ。何の不自由もなく幸せに暮らしてますって、言ったらどうなのよ。
しばらく待ってみたけど、市十郎は何も答えなかった。
馬鹿らしいわね。私は快適でもない散策をあきらめ、再び石段を上ったわ。
市十郎は少し間隔を空けて付いてくる。私が転びそうなら手を貸すつもりなんでしょうけど、誰があんたなんかにすがるものですか。
今頃、お殿様は気に入った女を、ご寝所に連れ込んでいるかもしれない。
息を切らせて登りながら、そんな心配も頭をよぎった。でもそれならそれでいいわ。私はお庭でしばらく待ってるから。
市十郎? あんなやつ、さっさと下がらせるわよ。
別邸の庭の植え込みを回った途端、母屋から楽しそうな笑い声が響いてきた。
やっぱり。宴はまだまだ続いてるのね。
だけどそのとき。
私は廊下のお杉戸が開いているのを見たの。暗がりに手燭を持った人物が一人で立ってて、こっちを見てる。
お殿様だった。手燭の明かりがふわっと持ち上がり、お楽、と呼ぶ声が闇に響く。
「お楽なのか」
私は息を呑んだわ。その声には、この私を気遣う温もりがあったから。
「殿……!」
気が狂いそうになって、私は庭を駆け出した。
お殿様は、ずっと私のことを思っててくれたのね。他に心を移すことなく、私のことを心配してくれたのね。それで楽しい宴は家臣に預け、一人で待っていてくれたんだわ。
「これ、走るな、お楽。危ないではないか」
お殿様に叱られたけど、私は夢中で沓脱 石に駆け上がり、草履を脱ぎ捨てた。
そして愛する人の首に抱きついたの。
「殿! 殿!」
「一体どこへ行っておったんじゃ。心配したんだぞ」
お殿様は私を片手で抱きとめ、手燭を床に置いた。
良かった、と私は泣きながら思ったわ。私は一体何を心配してたんだっけ。
目を開けたとき、お殿様の肩越しに暗い庭が視界に入ってきた。
佐山市十郎が、影のようにぽつんと立ってる。
あ、と思ったけど、お殿様は後ろ手にぴしゃりと戸を閉めた。
だけど降り立った所は、期待したような美しい砂浜なんかじゃなかった。
じめじめした湿地帯と、険しい岩場しかないみたい。快適とは言い難い所だけど、今降りてきた石段をまた上る気にはなれなかった。
それに、すぐそこに大きな岩があるの。あの向こうは歩きやすい所かもしれないじゃない?
私は迫り出してきた腹をかばいながら、ゆっくりと歩き出した。丸石がカタカタと音を鳴らす。不安定で何とも歩きにくいけど、ここで転ぶわけにはいかなかった。
大岩を回り込んだ、そのとき。
陰に座っていた佐山市十郎が驚いたように振り向いた。
嫌だ。
私は顔を背けた。こっちだって驚いたわよ。こんな所で鉢合わせしちゃうなんて。
市十郎は傍らの提灯を持ち上げたわ。
「……こんな時分に、どちらへ」
ふん、と私はうつむいたまま鼻を鳴らす。
「あなたこそ、宴に出ずに良いのですか? 殿にご加増を賜る、またとない機会でありましょうに」
そうよ。今回のことで、主君派の藩士は軒並み出頭を遂げたわ。本来なら市十郎はその筆頭にいてもいいはずなのに、何をやってるのかしら。
相変わらず、愚鈍な男だと思う。完全に捨て置かれてるくせに、本人はそれをどうしようともしないんだから。
思わず言いたくなる。剣戟がちょっと得意だからって、今の時代あんまり役には立たないじゃない。もっと上の人間に取り入る方法を考えたらどうなのって。
でも、こんな男と話しても仕方がないと思った。
黙って再び歩き出したら、市十郎は提灯を取り上げ、心配そうな顔つきでついて来たわ。
月が煌々と輝いていても、やっぱり今は夜。市十郎は少しでも、私の足元を照らそうとしてくれてるようだった。
大きなお世話だと思う。
でも確かに足元は泥で汚れているし、さっきから何度もつまづきかけてる。灯りが欲しいと思ったのは事実よ。でも市十郎に体を支えてもらうような事態は避けなくちゃ。
先が見えたところで、立ち止まった。
何だ。この先も、ずっと岩場が続いてるだけじゃない。
私は盛大なため息をついた。悔しいけど、散策を楽しむどころじゃないわね。
特に見るべきものもない暗い海。かすかに音を立て、闇の中で上下を繰り返す波打ち際に、私はじっと目をやった。この無表情な海に、たまっていたものを全部吐き出したかった。
「奥様とは、うまくいってるの」
佐山が気遣わしげなのが腹立たしくて、私は声を荒げた。こんなことを聞くつもりはなかったのに、私は何を言っているんだろう。
残酷な質問ね。この男が幸せそうにしているのなんて、一度も見たことがないもの。
たぶん家庭で心が休まることはないんでしょう。市十郎の表情はいつも疲れに毒されているように見える。
だけどね。
唇を噛み締める市十郎を、私は最大限の憎悪とともに振り向いた。
だけど、そのためにあなたは私を捨てたのよ? 私を都合の悪い女と断定して、あなたは無情に踏みにじったのよ?
奥さんとうまくやるのは、この男の義務だと思う。そうよあなた、自分の醜悪さを認めなさいよ。何の不自由もなく幸せに暮らしてますって、言ったらどうなのよ。
しばらく待ってみたけど、市十郎は何も答えなかった。
馬鹿らしいわね。私は快適でもない散策をあきらめ、再び石段を上ったわ。
市十郎は少し間隔を空けて付いてくる。私が転びそうなら手を貸すつもりなんでしょうけど、誰があんたなんかにすがるものですか。
今頃、お殿様は気に入った女を、ご寝所に連れ込んでいるかもしれない。
息を切らせて登りながら、そんな心配も頭をよぎった。でもそれならそれでいいわ。私はお庭でしばらく待ってるから。
市十郎? あんなやつ、さっさと下がらせるわよ。
別邸の庭の植え込みを回った途端、母屋から楽しそうな笑い声が響いてきた。
やっぱり。宴はまだまだ続いてるのね。
だけどそのとき。
私は廊下のお杉戸が開いているのを見たの。暗がりに手燭を持った人物が一人で立ってて、こっちを見てる。
お殿様だった。手燭の明かりがふわっと持ち上がり、お楽、と呼ぶ声が闇に響く。
「お楽なのか」
私は息を呑んだわ。その声には、この私を気遣う温もりがあったから。
「殿……!」
気が狂いそうになって、私は庭を駆け出した。
お殿様は、ずっと私のことを思っててくれたのね。他に心を移すことなく、私のことを心配してくれたのね。それで楽しい宴は家臣に預け、一人で待っていてくれたんだわ。
「これ、走るな、お楽。危ないではないか」
お殿様に叱られたけど、私は夢中で
そして愛する人の首に抱きついたの。
「殿! 殿!」
「一体どこへ行っておったんじゃ。心配したんだぞ」
お殿様は私を片手で抱きとめ、手燭を床に置いた。
良かった、と私は泣きながら思ったわ。私は一体何を心配してたんだっけ。
目を開けたとき、お殿様の肩越しに暗い庭が視界に入ってきた。
佐山市十郎が、影のようにぽつんと立ってる。
あ、と思ったけど、お殿様は後ろ手にぴしゃりと戸を閉めた。