第54話 半病人

文字数 4,041文字

 幕府より、由良湊(ゆらみなと)掘抜(ほりぬき)の許可が降りた。

 本当に良かったと思ってるわ。城中はすっかり、普請の準備や淡路との連絡に忙しくなっている。
 何よりこれで、主君派は一気に勢いづいたのよ。

 私だってそう。あの嫌な女、お時を奥御殿から追い出すことまでは叶わなかったけれど、こうしてしっかりとお殿様に存在を思い出していただき、そのお側に舞い戻ってる。稲田の爺さんとその側近の中根が、それとなく名前を出してくれたからよ。よくやってくれたもんだわ。

 だけど困ったことが一つ。
 肝心のお殿様のご体調が、反落の一途を辿ってるの。

 ここ数日、特にひどいのよ。私がどんなにさすって差し上げても、全身はむくみ、不眠もひどくてご機嫌が悪いの。そのお体は腐臭すら発し始めてて、着物に香を焚きしめても隠せないぐらい。

 体調が悪いと気分まで落ち込むのかしら。お殿様は頭をかきむしり、わめきたててるわ。
「お楽よ、ちゃんと祈祷を続けておるのか? 織部は夕べもやってきたぞ」

 いちいち怒鳴られるものだから、私はもう寝不足でひどいもんよ。もはや幽霊が怖いとか何とか、思わなくなってしまった。
 とにかくお殿様を抱きとめ、なだめ続けてるわ。
「僧侶の人数を増やしましょう。それから、もっと強い護符を作らせまする」

 何とかこの病を治す手立てはないものかしら。こんな調子じゃ、港を造ったところで、完成を見る前にお殿様が壊れてしまうわ。
 
 悶々と悩んでいたら、ちょうど林建部と、本〆(もとじめ)役を解かれて物頭(ものがしら)席に戻った佐山市十郎の二人が奥御殿にやってきた。
「……表御殿でも、お殿様の奇行が目立っておってな」
 彼らの方も疲れを滲ませ、私に向かってそう語り出した。最近は対面用のお広敷ではなく、こうしてお殿様の居室で密談するのが習慣になっている。

「今日などは、評定の席で長谷川家老に脇息(きょうそく)を投げつけようとなさった。側にいた賀嶋(かしま)家老が何とか止めたが、あれは尋常ではないぞ」
 建部は困り果てた表情を見せ、お殿様の方をちらりと振り返った。
 当のお殿様は、ぽつねんと背を丸めて濡れ縁に座り、庭を眺めてる。

 まったく、と私は畳んだ扇子の柄で自分の掌をぽんぽん叩く。
 こうなったのは長谷川たちがお殿様を軽んじているせいよ。全部あいつらが悪いのよ。

 とにかく、本人がすぐそこにいる以上、大きな声は出せなかった。建部もそっとこちらに身を寄せ、心配そうにささやいてきたわ。
「この調子で、鹿狩(ししがり)に出られるだろうか?」

「ちょっと、中止したんじゃなかったの?」
 私はぎょっとして扇子の先を建部に向けた。
 そう、今月末にはまた鹿狩が控えてたんだけど、私は中止が決定したものとばかり思ってたの。
「無理に決まってるじゃない。あれは体力の消耗が激し過ぎるわ」

「とっくに申請を出してしまったのだ。今さら取り下げられぬ」
 今度は佐山市十郎が重々しく口を開いた。
「狩そのものは、我々の方で何とかできる。しかし儀式だけは殿に出て頂かないと」
「じゃあせめて延期なさい!」
 私は扇子でぱしんと畳を叩いた。
「二人とも頼りないわね。何であんたたちがどうにもできないのよ」

 だけどもう、幕府の使者が江戸を発ち、阿波へ向かっているところなんですって。こうなったら中止はできない。延期も難しい。そのぐらい、私にも分かるわ。
 そもそも鹿狩は、あくまで戦の予行演習を兼ねた大切な行事だもの。藩主が当日に風邪を召そうが天気が荒れようが、絶対に決行なのよね。

「……それより、ちょっと」
 建部は軽く手招きし、私と佐山に頭を寄せるよう、うながしてきた。
「聞いたか? 長谷川家老が内匠頭(たくみのかみ)様と栄吉(えいきち)(ぎみ)の親子に何度も面会しておる。あれはどうやら、本気で担ぎ上げる気だぞ」

 胸にうずく小さな不快感とともに、私はうなずいた。
 久しぶりに聞く、蜂須賀内匠頭の名だった。あの観菊の会以来、忘れかけてたのに。

 と思ったら、内匠頭の名だけはお殿様にも聞こえてたみたい。びくっと体を震わせ、お殿様は今目が覚めたかのようにこちらを振り向いたわ。

 それに気づかない建部は、自分たちも手を打とうと熱心に話し続けてる。
「一日も早く、千松丸(せんまつまる)(ぎみ)を公方様に御目見得させねばなるまい。この分では敵に先を越されるぞ」
「御目見得って……栄吉が、御目見得する予定でもあるのか! 」
 お殿様が急に荒々しい足取りで、私たち三人のところへやってきた。

 まずい。
 私は膝立ちになって首を振り、建部をかばおうとしたんだけど、間に合わなかった。お殿様は意外なほど早い動きで、建部の胸倉をつかみ上げたわ。
「なぜそういうことになるんじゃ! そのほうら、長谷川の好き勝手を許したな。何という役立たず。そこへ直れ。成敗してくれるわ」

 本当にここへ太刀を持ってきそうな勢いだった。建部も驚いて、口から泡を吹きそうだわ。
「この者を責めても仕方がありません。お静まりあそばせ」
 私がお殿様の腕に手をかけた、その時よ。
 いきなりお殿様の平手が、ぱんと私の頬を殴った。

「……るせえんだよ、この売女!」

 驚くあまり、自分が倒れたこともよく分からなかった。しかもお殿様の足が、私のお腹にどかっと食い込んできたわ。

「わしが何も知らぬと思うたか。佐山と寝たくせに」
 痛み以上の、衝撃だったわ。
 視界の隅で、佐山も下を向き、蒼白になってる。

「殿、殿。それはもう終わったことにござる」
 建部が必死に立ち上がり、ようやくお殿様を押さえつけた。
「この女子に複雑な過去があることは、殿も重々承知でお召しになったはず。今さら蒸し返されますな」

 お殿様は肩で息をしてる。とりあえず大人しくなったようだけど、私は畳にすがり付いたまま顔を上げずにいた。
 まだほっとできなかった。猛獣はまた噛みついてくるかもしれないもの。

 だけどお殿様は、力を失ったように畳の上に崩れ落ちたわ。
「……もう嫌だ。織部の次は越前。次は誰がわしの敵となるんじゃ? お前か、それともお前か?」
 お殿様は二人の藩士を次々と指し、やがてご自分の頭を抱えてしくしく泣き出したわ。

 三人とも硬い表情で視線を交わしたけれど、私と佐山は何か言える立場でもないから黙ってた。
 建部が仕方なさそうに立ち上がり、なだめるようにお殿様の背をなでたわ。お殿様はその手を拒みはしなかったけど、やがて泣きながら膝を抱え、絞り出すように言った。

「わしは江戸へ行くぞ。阿波など、大嫌いじゃ」
 乱れた髪を直していた私は、そこではっと凍り付いた。
 それだけは口にして欲しくなかった言葉よ。建部が何も言うなと目で制してきたけど、私はどうにも抑えきれず、立ち上がったわ。

「阿波を……阿波を、お嫌いだと仰るのですか」
 そんなはずはないと思いつつ、絶望の闇が目の前を覆っていく。私はお殿様の前にいざり出ると、その肩に両手を伸ばしたわ。
「殿。殿。あなた様はこの国を任された身にございます。阿波の領主たるものが阿波から逃げてはなりませぬ」

「もう、たくさんなんだよ!」
 お殿様は頭を抱えたまま、上体を大きく横に振って私の手から離れようとした。
「江戸での養生願を出す。そうじゃ、わしは病じゃ。江戸には名医がたくさんおる。江戸でゆっくり休みたいんだ」

「阿波は、お嫌いにございますか。この楽がおりますのに、殿は阿波がお嫌いにございますか」
 江戸にお殿様を取られたくはない。絶対に。
 渦巻く執念にからめとられそうになったけれど、私はそこで先日の稲田の顔をすがるように思い出した。
「そうだわ。どうしても阿波を離れたいと仰せなら、稲田様にお願いしましょう。淡路島で療養なさればよろしいわ。わたくしも一緒に……」
 
 するとお殿様は稲田? と余計に怒ったようにつぶやき返してきた。
「稲田の爺さんなんか嫌いじゃ。お楽の言う通りにしてやったのに、あいつはちっともわしを立ててくれんではないか。港なんか知らぬ。あんなもの、つぶれてしまえばいいんじゃ」
 そんな。
 私は呆然と首を振る。稲田九郎兵衛は、殿を支えてくれるって言ったじゃないの。中根はちゃんと淡路の家中を束ね、主君派に入ってくれたじゃないの。

 残念ながら、お殿様の目はもう死んでたわ。
 お殿様のために働きたいと思う者がちゃんといるのに、もうそれは通用しなかった。お殿様ご自身が誰のことも信じられなくなっているのだから。
「江戸に行きたい。江戸に行かねば、わしはもう治らんのだ」
 
 私の頭の中は、もう真っ白だった。一番おつらい時に、お殿様は江戸をお選びになるのね? この私よりも、伝姫様の方が上なのね?

 建部が近寄ってきて、私をお殿様から引き離した。
「左様にござるな。どうぞ、江戸においでなされ。阿波を一旦離れて、お休みなさるがよろしかろう」
 
 私は口をはさみたかったけれど、建部が小さく首を振ってきた。お殿様を縛りつければ、余計に事態が悪くなるってことでしょう。

 市十郎や、周囲でびくびくしながら見つめる侍女たちにも聞こえるよう、建部はそこで大きく声を発したわ。
「殿は、徳島城がおのれの城、阿波がおのれの国であることをよくご存じであらせられる。阿波を最も慈しみ、大事に思うておられる。愛おしく思えばこそ、苦悩もするわけである。落ち着くまで江戸での養生を願い出ようではないか」

 私は悲嘆に暮れたわ。お時との寵愛争いに勝ったと思ったのもつかの間、江戸に負けてしまったのよ。

 その後、鹿狩はごまかすように細々と決行された。
 その件が片付いてから、徳島を蹴り立つようなお殿様のご発駕(はつが)を、私の方も半病人のようになって見送ったわ。

 江戸で本当に病を克服してくれるなら、元のお殿様に戻ってくれるなら、それでいい。
 自分にはそう言い聞かせたわ。だけど頭の片隅で、これがお殿様との今生の別れになるかもしれないって不安が頭をもたげてきて、どうしようもなかった。

 晩夏の色あせた木々で、蜩が鳴いている。
 阿波など大嫌いじゃ、というお殿様のお声が、私の耳の奥で残響のように繰り返されてる。

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