第51話 変わり果てた藩主
文字数 1,840文字
織部の粛清から二年が経ち、元号が改まって明和元年となった。
おれももう二十八だ。若くはない。
疲れた。参勤の旅を終え、徳島城の奥御殿に到着するなり、おれは自分に平伏す侍女の頭の並びを黙って見下ろした。
苛立ったまま、肩で息をする。もはや、自分がすでに手を付けた者とそうでない者の区別もつかなかった。ただこの不快感を蹴散らす何かが欲しい。そうでなくては収まりがつかなかった。
輝くような猩々緋 の掻取りをまとった女が目に付いた。
その肩を小突き、彼女が身を起こした段階で腕をつかんだ。お時、という名の新しい側室だった。久々の国入りで、最初に彼女を召したわけだが、お時が特に気に入りというわけでもない。
「まあ殿、手荒な真似は嫌にございますわ」
お時は一緒に歩きながらやんわりと抵抗してきたが、おれは無言でその体を部屋に放り込む。彼女は部屋の中にどさりと倒れ込み、おれは勢いよく襖を閉めた。
手が震えている。
織部という巨大な敵を倒した後、おれの中で眠っていた狩人の血がたぎり出したようだった。抑えが利かないのは重石が取れたからではなく、むしろおれ自身の体の変化によるものだ。
自分でもおかしいと思っている。手足の関節がむくんで指が曲がらないし、もともと大柄な方だった体がさらに肥満しているのに、逆に顔はやつれている。血色も悪かった。
それでいて、病と認める気にはとてもなれなかった。こんな時はとにかく女を押し倒すしかなかった。
ほら、おれはまだ女を抱ける。健康なんだ。
それだけ確認できたら、少しは安心できた。
だが今日のおれは、どうやらその元気すらもないようだった。お時はすでにその気になっている様子だが、この体はがっくりと膝を付くことしかできない。
もはや死んだ魚の気分で、おれは呆れ顔のお時の前にだらしなく横たわった。
「……お時よ。長旅で疲れた。背をもんでくれ」
「かしこまりました」
お時はツボをよく心得ている。その指が遠慮もなくぐいぐいと背を押してきて、半端ではない痛みだ。おれは思わず顔を歪めたが、とにかく早く楽になりたくて、お時の手にすべてを託している。
ところが、お時が驚きの声を上げたのは間もなくのことだった。
「殿、これは……!」
這わせている指を止め、彼女は確認するようにおれの背中を撫でまわした。
これが疲れどころの症状ではないことが分かったのだろう。背中の脂肪の塊に一種の病的なものがあるのは、おれ自身が気づいている。
「少しお休みになられた方が良うございます。お夜具をのべますか」
「いや、いい」
おれは畳の上にうつ伏せのまま、自分の両腕に顔を乗せた。
「布団に入ったとて、どうせ眠れんのだ」
実は道中もずっとそうだった。駕籠に揺られているのも結構きついし、では徒歩でと思うと大して距離を稼がないうちに力が尽き、また駕籠へと戻ってしまう。その繰り返しだった。
呪われているせいで、おれの目の下には黒い隈が浮き出ている。
クソっと、おれは拳を床に叩きつけた。
「……織部は、江戸にまでやってきたんだ。このおれを殺しに来たんだ」
思い切ってそう言い、おれはお時を振り返った。死者の名を出せば、誰だって驚くはずだと思った。
だが彼女は驚くでもなく怪訝な顔をしている。意味が分からなかったのかもしれない。
おれはお時をはねのけるように起き上がると、宙にむかって両手をまさぐった。
「こう、白い壁を見ておるとな、織部が毎晩現れるのじゃ。何も言わず、表情を変えることもない。ただじっとわしを見つめておる」
織部はいつも言う。おれとお前は同じだ、と。
だからおれは、壁を見るのが嫌になった。
「織部はわしが相手にせんと分かると、今度は子どもたちを殺そうとした。何の罪もないあの子たちを、織部は祟ったのじゃ」
昨年の江戸屋敷では、息子たちが次々と疱瘡にかかったので大騒ぎだった。
何とか命は取り留めたが、首やら背中やらに痘痕が残ってしまった。今後の彼らの人生に多少の禍根は残すだろう。織部はそうやって、おれにじわじわと復讐している。
しかし目の前のお時はまったく理解できない、という顔のままだった。
無力感に包まれる。子供の病が幽霊の仕業だと言われても、普通は信じがたいというものだろう。ただそれは、自分が当事者でないからだ。
「やはり信じてはくれんのか。お楽は」
ため息をついた時、お時がいきなり怒気をみなぎらせて声を上げた。
「お楽、ですって?」
しまった、と顔を上げた時には遅かった。
おれももう二十八だ。若くはない。
疲れた。参勤の旅を終え、徳島城の奥御殿に到着するなり、おれは自分に平伏す侍女の頭の並びを黙って見下ろした。
苛立ったまま、肩で息をする。もはや、自分がすでに手を付けた者とそうでない者の区別もつかなかった。ただこの不快感を蹴散らす何かが欲しい。そうでなくては収まりがつかなかった。
輝くような
その肩を小突き、彼女が身を起こした段階で腕をつかんだ。お時、という名の新しい側室だった。久々の国入りで、最初に彼女を召したわけだが、お時が特に気に入りというわけでもない。
「まあ殿、手荒な真似は嫌にございますわ」
お時は一緒に歩きながらやんわりと抵抗してきたが、おれは無言でその体を部屋に放り込む。彼女は部屋の中にどさりと倒れ込み、おれは勢いよく襖を閉めた。
手が震えている。
織部という巨大な敵を倒した後、おれの中で眠っていた狩人の血がたぎり出したようだった。抑えが利かないのは重石が取れたからではなく、むしろおれ自身の体の変化によるものだ。
自分でもおかしいと思っている。手足の関節がむくんで指が曲がらないし、もともと大柄な方だった体がさらに肥満しているのに、逆に顔はやつれている。血色も悪かった。
それでいて、病と認める気にはとてもなれなかった。こんな時はとにかく女を押し倒すしかなかった。
ほら、おれはまだ女を抱ける。健康なんだ。
それだけ確認できたら、少しは安心できた。
だが今日のおれは、どうやらその元気すらもないようだった。お時はすでにその気になっている様子だが、この体はがっくりと膝を付くことしかできない。
もはや死んだ魚の気分で、おれは呆れ顔のお時の前にだらしなく横たわった。
「……お時よ。長旅で疲れた。背をもんでくれ」
「かしこまりました」
お時はツボをよく心得ている。その指が遠慮もなくぐいぐいと背を押してきて、半端ではない痛みだ。おれは思わず顔を歪めたが、とにかく早く楽になりたくて、お時の手にすべてを託している。
ところが、お時が驚きの声を上げたのは間もなくのことだった。
「殿、これは……!」
這わせている指を止め、彼女は確認するようにおれの背中を撫でまわした。
これが疲れどころの症状ではないことが分かったのだろう。背中の脂肪の塊に一種の病的なものがあるのは、おれ自身が気づいている。
「少しお休みになられた方が良うございます。お夜具をのべますか」
「いや、いい」
おれは畳の上にうつ伏せのまま、自分の両腕に顔を乗せた。
「布団に入ったとて、どうせ眠れんのだ」
実は道中もずっとそうだった。駕籠に揺られているのも結構きついし、では徒歩でと思うと大して距離を稼がないうちに力が尽き、また駕籠へと戻ってしまう。その繰り返しだった。
呪われているせいで、おれの目の下には黒い隈が浮き出ている。
クソっと、おれは拳を床に叩きつけた。
「……織部は、江戸にまでやってきたんだ。このおれを殺しに来たんだ」
思い切ってそう言い、おれはお時を振り返った。死者の名を出せば、誰だって驚くはずだと思った。
だが彼女は驚くでもなく怪訝な顔をしている。意味が分からなかったのかもしれない。
おれはお時をはねのけるように起き上がると、宙にむかって両手をまさぐった。
「こう、白い壁を見ておるとな、織部が毎晩現れるのじゃ。何も言わず、表情を変えることもない。ただじっとわしを見つめておる」
織部はいつも言う。おれとお前は同じだ、と。
だからおれは、壁を見るのが嫌になった。
「織部はわしが相手にせんと分かると、今度は子どもたちを殺そうとした。何の罪もないあの子たちを、織部は祟ったのじゃ」
昨年の江戸屋敷では、息子たちが次々と疱瘡にかかったので大騒ぎだった。
何とか命は取り留めたが、首やら背中やらに痘痕が残ってしまった。今後の彼らの人生に多少の禍根は残すだろう。織部はそうやって、おれにじわじわと復讐している。
しかし目の前のお時はまったく理解できない、という顔のままだった。
無力感に包まれる。子供の病が幽霊の仕業だと言われても、普通は信じがたいというものだろう。ただそれは、自分が当事者でないからだ。
「やはり信じてはくれんのか。お楽は」
ため息をついた時、お時がいきなり怒気をみなぎらせて声を上げた。
「お楽、ですって?」
しまった、と顔を上げた時には遅かった。