第24話 一瞬の夏

文字数 2,302文字

 二人で城の(から)め手側へとやってくると、私は最後の城壁に上って反対側を見下ろした。
 その途端、ぞっとしたわ。
 真っ逆さまに落ちるかと思った。はるか眼下にまで反り返った石垣が続いてて、一番下は堀川の黒々とした水面に達してるの。

 となると、このまま城壁の切妻(きりづま)屋根のてっぺんを歩くしかなかった。だけどその場合も、数寄屋(すきや)門の構えにぶつかるから、さらに高い場所へ上がらなくちゃならない。

 私一人なら軒下にくぐり込む形で、門から続く橋の欄干(らんかん)に降り立つこともできそうだった。だけどお殿様にそれをやらせて、万一お堀に落ちたら目も当てられない。

 というわけで、そっちは諦めた。
 私はお殿様の待っている方へ飛び降り、そっと数寄屋門に忍び寄ったわ。

 大丈夫そうよ。ここでも門番たちは脇の小部屋で酒盛りをしてるけど、全員が酔っぱらって、誰も外の異変に気付いていないようだった。
 私はくぐり戸の(かんぬき)をそっと開け、無言でお殿様を手招きした。

 浮かれた三味線の音が辺りに響く中、私たちは足音を立てずに橋を渡ったわ。

「やった。やったな。お楽」
 お殿様が拳を握って大声を上げるもんだから、私はしーっと口に指を立てた。
「ここから走ります」

 手をつなぎ、私たちは駆け出した。
 笛と太鼓、人々の歓声が、次第に大きくなる。
 やがて提灯の列が見渡せる所まで出て、私たちはぴたっと足を止めた。
「……な、何だ、これは……!」
 お殿様が目を見開いた。

 目の前には、まったく違う世界が広がってた。思い思いの派手な衣装に身を包んだ百姓や町人が無秩序に行き交い、陽気に、そして恍惚として踊ってるのよ。

 お殿様は茫然として、人々の狂乱に見入ってる。その熱気に圧され、言葉も出ずにいる。
「……ここまででございます、殿!」
 喧噪にかき消されないよう、私は大きな声を出さねばならなかった。
「見たらすぐに帰りますよ! 皆が心配しますゆえ!」

 周囲には、昼間のように明るい光と酒の匂いがあふれてる。狂った世界。誰もが興奮のあまり、いつもの自分を失ってる。
 魔の力に取りつかれたかのように、人々は歯切れよく足を踏み出しては、汗を飛び散らしてる。すさまじい熱気と臭気とで、私までがクラクラしてくるほどだったわ。

「……すごいな、お楽。これが祭じゃ。これが本当の祭じゃ」
 見開かれたお殿様の目に光が映り込み、激しく揺らめいてる。
「この国を任されて五年にもなるのに、初めて見た」

 夢中で踊る民衆は誰ひとりとして、私たちの存在に気付いていなかった。お殿様とて(ひとえ)の着流しに脇差(わきざし)を帯びただけだもの、とても一藩の主には見えないでしょう。

 お殿様は茫然としつつ、わずかにその目の端に悲壮感を滲ませた。
「……そうじゃ、五年も経ったのだ。昨日のことのような気がするのに、もう五年。人生は何と短いことであろう」
 狂乱の群衆が、目の前をゆっくりと移動していく。そのさまは大河の流れを思わせた。

 お殿様が、ぎゅっと手に力を込めてきた。
「人がなぜこれほどまでに踊り狂うか、分かるか、お楽」
 そのとき三味線と太鼓の音が急に強くなった。私は空いている方の手を耳に当てる。
「え、何ですって、聞こえませぬ!」
 狂乱の奔流に向かって、お殿様はふらふらと足を踏み出した。
「一瞬の夏に泣くためじゃ」
 
 流れ星が過ぎ去った。
 お殿様は奪うように私の手を取り、そのまま踊る群衆の中へと走り出す。
 一瞬何が起きたのか分からなかったけど、私はすぐに止めようとしたわ。
「殿、なりませぬ、殿!」

 だけどお殿様は止まらなかった。他人と体がぶつかっても気にしなかった。
 私もやがて抵抗するのを諦め、二人で手をつないだまま、狂気の波の中へ疾走した。

 群衆はひたすら手足を振り、体をひねってる。笠や手拭(てぬぐい)で顔を隠しているのは、きっと誰もが今日だけは身分も秩序も忘れ、夢の中にいたいから。

 その姿が陽気であればあるほど、背後に差し迫る暗い影を感じさせた。日々の苦しい生活や、あるいはそう遠くはない老いや死を、私たちは無情にも突きつけられる。
 だけど、はかなく消える光の彼方に目を向けるからこそ、人はどうにか地に足を付けて生きられるのかもしれないと思う。
 そうよ、この華やかなお祭は、夏の終わりを告げるもの。消えゆく蝋燭の最後のきらめきのように、今ここで燃え盛る。

 そのとき突然、お殿様が声を上げて笑い出した。私と両手を握り合うようにして、ぐるぐるとその場を回り出す。思考を中断したかのように、ただ民衆の狂気に自分から巻き込まれたいとでも言うように。

 何がそんなにおかしいのかしら。
 と思ったのは一瞬のこと。すぐに私の中からも笑いがこみ上げてきたわ。
 周囲の興奮も絶頂に達してる。一度笑い出すともう止まらなくなって、未だかつて人生がこんなにも面白おかしいことはなかったような気がしてきたわ。

 声を上げ、笑いながら、思った。
 私、この人と添い遂げたい。この世のすべてを敵に回しても。

「殿、殿!」
 私は夜空を振り仰いだ。勢いで涙がはじけ飛ぶ。
 何じゃ、とお殿様が聞き返してくる。
「あたし……あたし、生きてる!」
 
 絞り上げるように叫んだとき、ふいに真顔になったお殿様が私を引き寄せた。
 そのまま、私たちは固く抱き合ったわ。

 周囲では、無数の男女が変わらず踊り続けてる。太鼓の音は次第に大きくなり、やがて大地を打ち砕く吉野川の轟音となる。
 大河の怒涛の中で溺れるようにして、私たちは濃密に口づけを交わした。

 あたしのお殿様。あたしの愛するお殿様。

 その首に手を回し、私は心の底から叫んだわ。
 絶対に、名君にしてあげる。

 私自身が、暴れ川と化した時だった。

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