第70話 二度目はなりませぬぞ

文字数 1,922文字

 国内に縁者がいない。

 重喜公の方も多少はその自覚があるのだろう。こちらの顔色をうかがうかのように、阿波に肩入れする気持ちを強調し始めた。
「いや、九郎兵衛よ。わしとて阿波の人間を応援したいと思うておる。最近では、藍染や紙漉きの職人たちの保護をしておってな」

 あ、と思った。
 その件に、自分から触れてきたか。

 ならばと思う。自分の心積もりより早かったが、私は居住まいを正し、本題に入った。
「……大谷(おおたに)に建設中の御殿も、その一環にございますか」
 
 予想通りだ。今度は重喜公が言葉に詰まった。

 しかしそれは一瞬のこと。元々は頭の回る人だから、すぐに攻勢に転じてきた。
「無論じゃ。阿波には大勢の優秀な職人がおるというに、多くが失業しておる。情けないことじゃ。彼らに良い仕事をさせたいという、その一心で始めたことじゃ」

 つまり、自分の贅沢ではないというのだ。
 何とでも言い訳できるものである。

 ため息をつきたいのを我慢して、私は続ける。
「建材に紫檀を用いるなど、大変豪奢な造りと聞き及びまする。即刻、おやめ下され」
「やめる? せっかく一流の職人を集めたところなのに、なぜやめるんだ」
「ご公儀に睨まれまする」
 ご公儀、というところに一層力を込めた。主君がむっとしたのは分かったが、今日という今日はもう引き下がれない。

 家中領民に厳しい暮らしを強いていることを、為政者は忘れてはならぬのである。自らが倹約の先頭に立とうとした、あの頃のお殿様に戻って頂こうではないか。
 たった七年前のことだ。戻れないはずはない。

 だが重喜公は、一歩も引こうとしなかった。
「びくびくと上の顔色をうかがっておっては、改革などできようはずがない。そうやって縮こまっているのがわしは一番嫌いなんじゃ」
 私の膝の上に置かれた指が、ぴくんと跳ね上がった。今の言葉、聞き捨てならない。
「上の顔色、ですと? 恐れ多くも将軍家を軽く見られるような言動、この九郎兵衛が許しませぬぞ」

「何だよ」
 重喜公は唇を尖らせる。
「ようやく口うるさい重臣を片付けたというに、今度は九郎兵衛がわしの頭を押さえつけるのか。九郎兵衛だけは信頼しておったのに」

 失望を露わにし、重喜公は私を指さした。
「良いか。大谷御殿はわが夢なのだ。御殿に書物を集め、大きな文庫を作るんだ。今に阿波の国は文化芸術の中心となる。九郎兵衛に何を言われても、これだけは譲らんぞ」

 独善である。私は首を振った。
「お考え下され。今、借金をしてまで造るべきものではないでしょう」
「黙れ、九郎兵衛! 黙らんとそちを仕置役から解任するぞ」
 重喜公は私を一喝する。その指は私に向けられたままだ。

 小刻みに震えるその指を見つめた時、見えたような気がした。長きにわたる座席衆との確執の末、このお殿様にはすでに老臣への反発が癖として定着してしまっている。
 我々二人が互いに冷遇された友人同士であるうちは良かったのだ。しかし重喜公は今やこの私を、かつての座席衆と同一視している。一旦そうなれば、覆すのは容易ではなさそうだった。

「そちの顔など見とうない。下がれ」
 熱を帯びた重喜公は、その反対に凍り付くような声を発した。
「いや。今すぐ徳島城から出て行け」

 ここで食い下がるべきか。それとも一度は黙って受け入れるべきか。

 少し考え、私はすぐに後者を選んだ。どんなに理不尽でも、相手は主君である。それにこういう時は、双方とも頭を冷やして考えた方が良いだろう。
「結構にございまする。それがし、しばしの間、自宅にて謹慎致しましょう。殿におかれましても、御家の安泰を第一にお考え下され」
 言いながら、一種の無力感にさいなまれた。時間が与えられたからといって、この主君に適切な判断力を取り戻せるだろうか? 重喜公の場合、他に有能な側近がいるわけでもないのだ。

 こちらは苦渋の言葉だったというのに、重喜公はぷいと私から顔を背け、先ほどの書き物を再開した。その横顔は、まるで機嫌を損ねた幼児である。

 こうなればもう下がるしかないだろう。
 しかしその前に、念を押しておかねばなるまい。

「お忘れなさいませんように。すでに御家は、日光お手伝い普請という大きな負担を経験いたしました」
 そう。ご公儀に睨まれた大名家には、過酷な運命が待ち構えているのだ。下手をすれば御家断絶となるのだ。
 だからこそ、どの藩も行動には万全の慎重を期している。いかなる時も忘れてはならないことだ。

「稲田九郎兵衛、これだけは申し上げておきます」
 私はぐっと腹に力を込める。
「二度目は、なりませぬぞ」

 しかし重喜公は顔を上げてくれなかった。紙を挟み込む余地もないぐらい、この主君は心を閉ざしてしまっているのだった。

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