第72話 月並拝賀

文字数 2,120文字

 翌日は、月並拝賀だった。
 将軍様のおわす江戸城に、在府の大名たちが集結する。月に一度、総登城の定例日である。

 いつもこうなのだが、江戸城の周辺は各大名の従者で大混雑。幸いにして徳島藩上屋敷は距離も近いし、さして苦労はないはずだった。

 しかし今日はどうしたことか。
 早めに出発したにも関わらず、徳島藩の行列は進むのに難渋した。周囲では怒声が飛び交い、おれの駕籠はがくんがくんと激しく揺れる。必死に声を出さぬようにしたが、おれは幾度となく壁に天井に、頭をぶつけてしまった。

 まったく。これだから江戸は嫌いだ。
 おれは頭を撫でさする。これが今日の首尾の前触れでなければ良いのだが。

 あと少しの辛抱だ、と自分に言い聞かせる。
 四月中には阿波へ帰国の予定だから、江戸の喧噪も今回はこれで最後。帰国の前に、老中に例の件で話をつけて、それで終わりだ。

 本丸に向かう途中の中雀門(ちゅうじゃくもん)でおれは駕籠を降り、自分の家臣団と別れた。佩刀を預け、あとは一人で歩かねばならない。

 登城は、いつも通りだった。
 在府の大名は、大紋(だいもん)長袴(ながばかま)風折(かざおり)烏帽子を身につけているからすぐにそれとわかる。おれを含め、みんな本丸御殿内に上がるとすぐに所定の部屋へと分かれて行く。

 どの部屋に自分の伺候席(しこうせき)を持つかは、家格に応じて決められている。蜂須賀家の席は「大広間(おおびろま)」にあり、主に大身の国持大名が詰める場所だった。
 ちなみに大広間より格が高いのは、「大廊下(おおろうか)」のみ。こちらは基本的に御三家御三卿の部屋だ。将軍家の親戚と思えばいい。

 どの部屋も、とにかくぴんと張りつめた空気に満ちている。
 城中では一切の私語は禁止。何か用事があってもひそひそ話がせいぜいで、おおかた全員が沈黙している。呼ばれるまではいつもこうだ。

 が、その緊張感も十代将軍、徳川家治の拝謁が済むまでの間である。

 同じ立場の大名たちが列をなし、松の廊下を粛々と歩いて白書院へと移動。そこでひれ伏して待ち、襖が開いて将軍様が姿をお見せになる(といってもこちらはひれ伏しているので、通常お姿は見えない)。

 お言葉は、ある場合とない場合と。
 やがて襖は閉められ、大名たちは頭を上げて戻ってくる。拝謁は以上である。

 たったそれだけ。
 それだけではあるのだが、絶対に間違いが許されない場であるからして、疲れることはこの上ない。頼むから早く終わってくれと、誰もが心中で念じているものだった。

 大名たちが弛緩した顔つきで戻って来るのは、さっきの殿席ではない。たいていは坊主部屋だった。
 表坊主はそれぞれ自分の担当大名を持っていて、彼らにとってはこれが大きな収入源。おれも決まった坊主に面倒を見てもらっている。
 謝礼はしっかり取られるが、ここなら雑談ほどではないにしろ小声で挨拶を交わすことはできるし、持参した弁当を広げたり湯茶の接待を受けたりもできる。

 しかしあまり他の大名と親しくすると、謀反か何かの疑いをかけられぬとも限らない。時候の挨拶や体調を気遣い合う言葉も、下手をすれば御家御取り潰しにつながる。
 当然ながら、坊主部屋で一緒に弁当を食べながらも、大名同士はすぐに沈黙してしまうものだった。

 こんな登城に何の意味があるのか、と時々むなしい気分になる。
 むろん徳川家の威信のため、ということに尽きるが、屋敷へ帰ればやることは山のようにあるにと思うのだ。おれは忙しいんだと、誰もが言いたいだろう。

 そんなことを考えつつ、おれは向かいの伊予西条藩、松平左京大夫の弁当にふと目を奪われた。

 うわ、うまそう……。
 思わずごくりと唾を飲み込んだ。紀州徳川家の御連枝(ごれんし)たる松平家の弁当は、色とりどりの豪華さだった。たぶん、どこかの有名料亭に作らせたのだろう。

 片や、漬物と白米だけのおれの弁当は何とひもじいことか。
 肩身が狭くなって、おれは風呂敷で半分隠してしまった。仕方がない。倹約令を出したのは、このおれじゃないか。

 しかしこれは皆が思うことなのだが、いつもはお殿様、お殿様と持ち上げられ気ままに生活しているのに、この日だけは違う。徳川家の一家臣に過ぎない身の上を思い知らされ、またその中でも身分立場の差を意識せざるを得ない。

 まさにそれが登城日というものだった。皆が一刻も早く帰りたがっている。だから登城に比べて下城は実に円滑なものだった。
 遅刻の恐れもないから、少々ぶつかり合ったって苛立つ者もいない。
 だけど実際のところ、帰り道ではそんなにひどい渋滞が起きないんだよな。何でだろう。これ、江戸の七不思議に加えてもいいと思うぜ?

 さて今日も、みんながそわそわと帰宅の準備を始める頃だ。
 例外的に残るのは、嫡子のお目見得など何か特別な用事がある者。
 そして今日のおれだった。

 いつも通り八つ頃に解散が告げられると、あちこちの部屋でざわめきは大きくなった。
「お先に失礼つかまつる」
 といった声があちこちで聞こえる。おれも他の大名たちと笑顔で会釈を交わしたが、今日は大事な用事がある。さりげなくその場から離れると、一人廊下に出た。

 すぐに笑顔が消え、必死の形相へと変わったのが自分でも分かる。
 廊下の先、周囲の部屋に視線を走らせる。

 ご老中様はどこだ!?

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