第60話 旅籠にて

文字数 2,491文字

 旅のことは、あえて語るまでもないわ。
 最初から物見遊山で出かけたわけじゃないし、道中も私はずっとお殿様に会うことだけを考えて、気もそぞろだったから。

 そして江戸に到着した今、この旅にさほどの意味がなかったことが分かってしまったの。

 言うまでもなく、藩主たる者はそうそう身動きが取れる身分じゃない。お殿様は年の瀬の忙しさに紛れ、どうにかお忍びで来てくれたんだけど、
「まったく、抜け出してくるのは大変だったぞ。どうしてくれるんだ」
 苦笑いをするお殿様は、私と佐山が拍子抜けするほど、ぴんぴんしてたわ。

 ここは江戸、京橋水谷町(みずたにちょう)にある旅籠(はたご)の一部屋よ。蜂須賀家の上屋敷と中屋敷の、ちょうど中間地点なの。
 外では、速水とかいう江戸詰めの藩士が一応警戒して見張ってるんですって。

「お楽よ、本気でわしが死ぬと思うたか」
 お殿様は、くすくすと肩を震わせる。
「冗談ではないわ。佐山が大げさに伝えたのであろうが、何という無謀なことをするんじゃ。驚くではないか」

 私は低頭したまま、心底ほっとして涙ぐんでたわ。確かにそうよね。体調に大きく波があるのは知ってたのに、どうしてあれほど焦っちゃったんだろう。

 私も佐山も身分を隠してるし、こっちの動きを長谷川派に知られるわけにいかなかった。そのため佐山が「上屋敷に乗り込むのはまずい」って、直前になって言い出して。
 まったくはるばる江戸まで来て、お殿様に会えずじまいで帰らされるところだったわ。何とかお殿様と連絡が取れ、こうして会えたわけだけど、そうじゃなかったら佐山なんか殺してやるところよ。

 でもお殿様は、佐山の報告を受けると、ふっと笑顔を消したわ。
「……敵は強硬手段に出るか。押込めだなどと、わしの不在を良いことに、よくもまあ」

 佐山はすかさず、持参した書状を差し出した。
「まことに残念ではありますが、容易ならざる事態にござる。ここに建部どのの書状もお持ちしました。ご覧下され」

 お殿様は、何重にも織り込まれた建部の書状を開いていく。
 私もそっと覗き込んでみたけど、建部の注意喚起を促す文面の他に、簡単な絵図が描かれてるようだった。今や敵となった長谷川の屋敷は、徳島城の南麓の曲輪にある。つまり主家である蜂須賀家の御殿とほぼ隣接しているわけで、両者の間には空堀(からぼり)一つないのよね。

 お殿様はため息をつきながら頭を掻いた。
「しようもねえな。あそこで、一戦交えたらどうなるかな。徳島城は丸焼けになるか」
「滅多なことを申されますな」
 佐山はたしなめるように声を発した。
「まだ決まったことではないようです。敵はまず殿を説得する方向で動くでしょう。おそらくはまた、長谷川派の使者が参ります」

「あの三浦か。そういや、医者の話はどうなったんだっけ」
「いいえ。説得にはもっと地位のある人間が参るようです。長谷川家老は、親類大名に働きかけているという噂も」
 相変わらずのんびり構えていたお殿様は、そこでぎょっとしたように顔を上げたわ。

「まさか讃岐(さぬき)公か!?」
 蜂須賀家にとって重代の親類でもある、高松の松平頼恭(よりたか)公。お殿様は厄介な親戚のことを気にしたようだけど、佐山はあっさりと首を振ったわ。
「いえ、あくまで我らが家中にござる」
「では、賀嶋か長谷川本人ということか。まずいぞ。ここは公儀のお膝元じゃ。江戸の町中で蜂須賀家の者が私闘を繰り広げでもしたら……」
「いえ、それも違います」
 佐山はまた首を振ったけど、私はもう聞いてられなくて口をはさんだ。

洲本(すもと)にございますわ」
「ほう」
 お殿様は顎をさすり、視線を天井に上げた。
「どういうことじゃ。わしは稲田の爺さんとは仲が良いのだぞ。敵は、稲田をわしから引き離す秘策でも持っておるのだろうか」

 仲が良い、と佐山が低い声で繰り返した。
「そこが狙いなのではないでしょうか。稲田様は仲裁に来られるのでございます。最終的には、殿にご自身の非を認めさせようとなさるはずです」
「稲田が寝返ったか」
 お殿様が声を鋭くする。
「わしも軽く見られたものだな。稲田の爺さん、港の件では泣いて喜んでおったくせに」
 ほんとよね。私も稲田はもっと頼りになるかと思ってた。残念だこと。

 だけど佐山の考えでは、こちらは形だけでも長谷川派と和解するしかないみたい。そのためには、稲田に頭を下げてでも仲裁してもらうべきだって。
「稲田様ご自身は、あくまで中立を貫くおつもりにござる。ここはそのようなご家老の顔を立てて差し上げ、国元の不穏な空気を払しょくするのが先決かと」
 稲田の立場は守り、事実上こちらにまた取り込む形にしていくんですって。

「……まあ、それが良いだろうな。確かに」
 お殿様は顎をさすってしばらく物思いにふけっていたけれど、やがてちょっとつまらなそうな顔をし、佐山に返答したわ。

「相わかった。そちの申す通り、稲田とは仲良くやるよ」
 佐山がほっと安心した表情を見せると、お殿様はついと顔を傾けた。
 そして今度は、私に笑いかけてきたわ。
「お楽、せっかく江戸まで参ったのじゃ。市中を見物して行くと良い。わしが案内してやれぬのが残念だが、浅草は良いぞ。天気の良い日は仲見世が出ているであろう」

「ありがたきお言葉ながら、わたくしは物見遊山に参ったわけではございませぬ!」
 思わず言い返したわ。声を発した途端、胸がいっぱいになった。
「……大坂だって京の都だって素通りして参りました。ただただ、殿に会いたい一心で」

 佐山はあれが恵那山だ、富士の御山だ、といちいち教えてくれたけど、私には感動する余裕すらなかった。もちろんそこには神様がおわすということだから、両手を合わせてお祈りしたわ。ただただ、お殿様の最期に間に合いますようにって。
 それに、馬籠宿では危うく所持金を奪い取られそうになったし、塩尻峠でも山賊めいた怪しげな人々を見たの。佐山や伊賀組の仲間がついてくれてても、やっぱり女の旅は命がけだったのよ。

 一つ一つ思い出して、私は泣けてきた。
「遊んでいる暇があったら、殿と少しでも一緒にいとうございます」
 
 懸命に語る私を、お殿様は微笑して見つめてたわ。
「……佐山。外せ」

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