第71話 内々のお達し

文字数 2,314文字

 まだ打診である、と前置きがあったそうである。
 しかし樋口内蔵助(くらのすけ)の報告を聞くにつけ、おれは自分の顔から血の気が引くのを感じていた。

 明和五年。
 今日、徳島藩は老中首座、松平右近衛将監(うこんえしょうげん)武元(たけちか)様の内々の呼び出しを受けた。それに応じて、この内蔵助が馳せ参じてきたところだ。
 ご老中様の、上野(こうずけ)館林(たてばやし)藩上屋敷は、目と鼻の先である。行って帰って来ても、さして(とき)はかからなかった。

「思し召しにより、という言葉を使われていました」
 おれの前に戻ってきた内蔵助は、懸命に相手側の様子を思い出そうとしているらしく、視線を泳がせながらそう言った。
 つまりご老中は、これが十代将軍徳川家治の意向であることを告げたのだ。であれば、蜂須賀家側が断ることはまずできない。

 命じられたのは、まさかの「お手伝い普請」。
 恐るべき報告に他ならなかった。

 すぐには声も出なかった。だが何とか自分を取り戻したおれは、なおも話そうとする内蔵助を手で制して黙らせる。
「ちょっと待ってくれ、本当に木曽の川普請なのか……?」

 木曽と言えば、その地名を聞いただけで誰もが震えあがるところだった。
 濃尾平野は木曽川、長良川、揖斐川と三つもの大河が走る、全国でも有数の水害の地である。吉野川を抱える阿波も洪水には苦しめられているが、あちらはとにかく桁違いだった。
 中でも人々の記憶には、いわゆる「宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん)」が鮮烈な形で残っている。

 今を去ること十数年前。
 幕府は薩摩藩島津家に対し、この木曽三川(きそさんせん)の工事を命じたのだ。

 当時、島津家には琉球との貿易によって秘かに蓄財しているとの黒い噂があった。おれには真偽のほどは分からないが、奴らが疑いの目をかけられていたのは確かである。
 お手伝い普請は、あからさまな弾圧と言っていいだろう。普請に莫大な費用がかかることはもちろんだが、この時は工事そのものにも幕府側の執拗な嫌がらせが続いたという。

 結果、薩摩はぼろぼろになった。
 島津家では河川工学に通じた人材が乏しかったため、薩摩藩士たちは自ら工事に当たったらしい。そして無謀なやり方をした末、大勢が命を落としたのである。
 彼らにはろくに食糧も与えられず、衛生面の劣悪さもあって普請小屋では赤痢が流行。衰弱し切った人々は、武士の誇りも何もあったものではなく、ただ幕府への恨みつらみを述べながら死んでいったという。

 普請の完了後、薩摩藩には莫大な借金が残った。総奉行はあまりの理不尽に抗議するとともに、多くの者を死なせた責任を取って割腹自殺。そして当時の薩摩藩主、島津重年は心労が重なり、二十七歳の若さでこの世を去った。

 事件そのものが公表されることはなかったが、おれだって噂を聞いてこれだけ知っている。
 あれと同じ目に、徳島藩も遭わされるというのか。まさかまさかと、今おれの頭の中ではそればかりが繰り返されている。

 内蔵助はご老中に言われたことを、そのまま報告してきた。
「薩摩が手を引いた後、長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題が残ってしまったそうにございます。薩摩が造った堤が、長良川の河床への土砂の堆積を促したためにございます。つまり、誰かがやり残しの工事を引き受けねばならぬということで……」

 がん、とおれは拳で脇息を叩きつける。
「だからといって、それをなぜ当家が担わねばならぬのじゃ!」
 怒声を浴びせかけると、内蔵助も他の家中も体をびくっと震わせた。
 しかし誰かが何か建設的な意見を出してくれるわけでもない。全員が、困ったように黙り込むだけだった。

 島津家と同じ運命を負わされるとしたら、蜂須賀家にはもう体力がなかった。阿波は滅亡するしかないだろう。
「あの、ご老中様は、蜂須賀家をかばい切れず、申し訳ないと頭を下げておられました」
 内蔵助が贖罪でもするかのように、もじもじと言った。

 中老出身のこの男はなかなか器用なところがあり、おれは江戸表の一切を取り仕切らせることにした。林建部が国元で、内蔵助が江戸、という役回りである。

 だが内蔵助には、幕閣どもの老練さが分かっていないようだった。
 あの表面の優しさにだまされてはいけない。奴らは常に虎視眈々と得物を狙っている。薩摩への嫌がらせが一段落したところで、次の標的を見つけたのだ。

 とはいえ、理不尽だった。こちらが島津家のように幕府に隠れて蓄財していたなら分かるが、蜂須賀家にそのようなやましさはない。
 
 ないはずだ、と考えておれは視線をめぐらせた。もしや藍大市の盛り上がりのために、徳島藩が儲けていると思われたのだろうか? それとも稲田九郎兵衛が言ったように、大谷御殿の件だろうか?

 いや、とおれは首を振った。
 どれもこれも、目を付けられるほどの大げさなものではない。
 強いて怠ってきたものがあるとすれば、お偉方との連絡交渉だろうか。挨拶ぐらい寄越せ、とご老中は釘を刺してきたのかもしれなかった。
 
 おれはどうにか落ち着きを取り戻し、膝の上に手を置いた。
「まあ良い。右近衛将監様は、まだ打診の段階であると仰ったのであろう? 明日はちょうど月並拝賀(つきなみはいが)であるし、わしが城中でご老中を捕まえ、直接真意をただして参る」
 
 内蔵助は泣き出しそうな目をこちらに向けた後、がばっとひれ伏した。
「申し訳ござりませぬ。それがしが至らぬせいで」
「気にするな。そちのせいではない」
 おれは言い捨てて立ち上がった。内蔵助はただ命令を聞く立場である。その場で質問すらできなかったとて当然だ。

 家臣に頼らず、自分で何とかしよう。
 そう思った途端、むしろ力が沸いてくるようだった。そう、おれは何でも自分で解決してきたじゃないか。何も恐れることはないんだ。

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