第37話 織部の負け

文字数 2,149文字

 評定は終わり、これにて退出。だから、これ以上考えても仕方がない。
 分かってはいるのだが、それでも他人の本音というのは気になるものだった。

 我慢できず、おれは大広間を辞した直後に振り向いた。するとやはり、全員がひれ伏し続けている中、織部だけはさっさと身を起こしている。
 しかも目が合った。なおも傲慢な、服従を拒む者の目だった。

 ……駄目だ、こりゃ。
 気が遠くなる思いだったが、もちろん大広間へは戻らない。ただうつむいて、おれは廊下に歩を進めた。この感じでは、新法の導入はもう少し先になるだろう。

 自分に言い聞かせる。おれの(まつりごと)は、ようやく端緒をつかんだばかり。今は無理をせず、皆が頭を下げてくれただけでも良しとするしかないではないか。

 徳島城下に白々と朝靄が漂っていた。
 眠たい目をこする家中が、ぞろぞろと下城していく。

 今日は茶坊主の先導もないから、おれは一人で奥御殿へ向かった。
 太鼓橋の形になった渡り廊下に、朝日が斜めに差し込んでいる。
 橋の先が降り着くその先に、お楽がぽつんと立っていた。夢でも見ている気分で、おれはふらふらと渡っていく。

 徹夜で待っていたのだろう。彼女の目の下には隈が浮き出ていた。互いに言葉も出ぬまま、固く抱き合った。

「……殿、殿」
 ようやく出てきたお楽の声は、涙でうるんでいた。
「みんな、聞きましたわ。ようなされました。よう戦われました」

「うん」
 おれは万感の思いを込め、お楽の肩で目をつむる。そうなのだ。ついに自分の意思を皆の前で述べた。
 その達成感を噛み締めた時、ふつふつと全身に力が蘇ってくるのを感じた。
 すぐにでも彼女を寝所に連れ込みたいと思った。三回はやれる。徹夜の疲れなど、どこかへ吹き飛んでしまうだろう。

 だが気もそぞろでお楽を抱き寄せた時だ。
「……それで」
 氷のように冷たい声が響いた。
「織部は、打ち首になさいましたか?」

「えっ」
 おれは唖然としてお楽の顔を見た。何の話か分からなかった。

 そこには、明らかにおれを拒絶する目があった。ちゃんと答えるまで、情交には応じてやらないということか。確かなのは、おれが織部を断罪しなければ許さないという、鉄壁の守りの意思だった。
「始末なさらなかったのですか。殿のお命まで狙った謀反(むほん)人でございますのに」

「……」
 おれはそっとお楽の肩から手を離した。
 何となく気圧されつつも、まだそんなことを言っているのかと思った。評定の場がそこまでの異常事態にはならなかったせいか、打ち首とか始末などといった言葉を平然と吐く彼女の方が飛躍しているように感じられる。

 当たり前のことだが、むやみに他人の命を奪って良いものではない。藩主という立場であれば余計にそうだ。お楽が織部を嫌いなのは分かるが、世の男たちは嫌いな奴とも仕事をしなければならないのである。

「な、なあ、お楽」
 何から話すべきか分からなかった。おれは両の(てのひら)を上向け、おろおろと訴える。
「仮に織部に死を与えるとしても、じゃ。重臣を打ち首にすることはないのじゃ。身分ある武士ならば、名誉を重んじて切腹させるのがせめてもの温情であって……」

「ならば、切腹と御家断絶でよろしゅうございましょう」
 峻烈な切り口上である。
 おれは正体不明の何かにギリギリと締め上げられるような気がした。圧倒され、委縮している。せっかく楽しく膨らんだ気分が音を立ててしぼんでいくようだった。

 一方でお楽の目は、異様に輝いていた。鷹匠たちから餌として生きたスズメを与えられ、嬉々として喰らう猛禽を思わせる目だ。
 いつものおれなら、彼女の好戦的な部分にかえって情欲を刺激されるところだった。でも今日は疲れているせいか、そうもいかない。

 これまで奇跡のように意気投合してきた二人が、初めてすれ違っていた。何やら荒れ果てた道が見える。彼女はおれを軽々と追い越し、すでに遠くにまで行ってしまっている、という気がした。

 確かに、とおれはかすれた声で続ける。
「……いずれ織部にはしかるべき罰を与えよう。だが、時期を待て」
 瞼の奥の疲労を意識しながら、おれは言い聞かせた。とりあえずお楽に納得してもらって、この場を終わりにしたかった。
「まずは話し合うのが大事じゃ。証拠もないのに、奴が謀反人と決めつけるのは早いぞ」

「証拠ぉ?」
 不快なものを聞いたとばかりに、お楽は眉根を寄せた。
「だって、このわたくしが証人ですのよ? 伊賀組の皆も同じですのよ? 証拠の品などあるわけがございませぬ」
 このとき、彼女の整った顔の裏にある醜さが見えたような気がした。うんざりするとは、こういう感覚を指すのかもしれない。
 おれは話が終わらないうちに黙って歩き出した。

「ねえ、殿、聞いてらっしゃる?」
 お楽は近づいてきたが、おれは片手で制し、拒絶の意を示した。
「疲れた。一人で休ませてくれ」

 耳鳴りがする。偏頭痛も始まって、おれは歩きながら、こめかみを揉んだ。

 お楽の言う通り、確かに織部をこのままにはしておけないだろう。
 だが命を奪うとなると、さすがにやり過ぎだ。この国には織部の庇護下で食っている者が多く、影響が大きすぎる。もう少し軽い罪で良いだろう。

 数日後、おれは山田織部に仕置役解任と閉門(へいもん)を言い渡した。
 これで十分、織部の負けだ。
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