第1話 孤独な藩主

文字数 1,901文字

 草原と荒地の続く大地に、無数の(ひずめ)の音が響いている。

 日の入りにはまだ早いはずだが、辺りは早くも陰りを帯び始め、視界が利かなくなりつつある。周囲の森は真っ暗だ。空が厚い雲に覆われているせいか、あるいは舞い上がる砂ぼこりのせいか。

 ここは撫養(むや)という土地で、阿波の北東、鳴門海峡に近かった。古くはここにも城があったそうだが、一国一城令で廃止されたという。今は石垣と、小さな村落が残るのみ。

 広い草地に幔幕が張られ、丸に(まんじ)(のぼり)が揺れている。
 鹿毛(かげ)の愛馬にまたがるこのおれは、蜂須賀(はちすか)阿波守重喜(しげよし)、徳島藩十代藩主である。

 精一杯、おれは馬上で背筋を伸ばす。ちょっとでも威厳に満ちて見えるように。

 ちょうど、蜂須賀家の家中が鹿狩(ししがり)を終えたところだ。騎馬の重臣と徒歩(かち)の者、さらにそれぞれの従者と合わせると、今日は三百人ほどがこの地を駆けずり回った。勢子(せこ)として徴収された百姓は、それ以上の人数だ。
 
 みんな疲れてるだろうが、おれだって同じだ。本当はすぐにでも休みたいところだが、残念ながらそうもいかない。

 おれの隣に、二人の侍がいるだろ? ご公儀より使わされた御旗本だ。
 ここで対応をしくじっちゃならない。こいつらは江戸に帰ったら、幕閣に今日の仕儀を報告する。そこで徳島藩の落ち度を告げ口されたら、たまらないからな。

 で、先頭の藩士が、獲物を高々と掲げてるだろ? あれが今日の戦績。
 徳島藩はちゃんと幕府のために精進しております、と示す証拠のようなものだ。

 おれがこうして鹿狩を催すのは、もう三度目になる。いつもながら重臣どもは開催をさんざん渋り、時には正面切って反対する。苦労が絶えないんだ。
 いや、おれが何をやるにしても、あ奴らは良い顔などしてくれない。何しろおれは蜂須賀家の血筋を引かぬ、養子の身だからな。

 まったく、この国を襲封して五年。おれ、今年はもう二十二になるんだぜ? なのに一人前の扱いを受けられない。何たることだ。こんな悩み、誰にも打ち明けられないよ。

 おれのように発言力のない藩主にとって、鹿狩は存在感を示すのに格好の行事なんだ。狩と称して出かけることで領内の視察ができるし、何より自分の号令一つで大勢の人が動くその様が圧巻だから。これ以上、見た目に説得力があるものはないよ。

 鹿狩や鷹狩といった、いわば軍事訓練を行う際には、前もってご公儀に届け出が必要だ。そして御三家を始め阿波のような大藩がこれを行う場合、将軍家から殊勝として褒美の品が下される。
 褒美と言ったって、雲雀などの珍味の品をほんの形ばかり頂くだけなんだが、中身は問題じゃない。これは大変な名誉だ。

 確かにこちらは返礼の使者を遣わした上、ご公儀の使者を丁重にもてなさねばならんのだから、面倒な上に大出費だ。重臣たちが反対するのも無理はない。
 だが、そうした儀礼がおれ個人に対して行われるのが大勢の目に映るわけだ。やっぱりこれは大きい。普段威張り散らしている者どもに、誰がこの国の主君なのかを思い出させてやるんだ。

 今回そうした目的は半分ぐらい果たせたと思うが、まだまだ足りないという気もする。

 だって、あれを見ろよ。一段と華やかな戦支度でずらりと並んだやつら。この国で座席衆(ざせきしゅう)と呼ばれる家老たちの一団だ。
 思わず舌打ちしたくなる。あいつら、主君のおれより目立つことを、悪いとも思ってないんだよな。

 あえてそちらを見ずに淡々と歩を進めていると、近習の林建部(たてべ)がすっと駒を寄せてきた。
「殿。例の者がこの先の熊野神社で控えおりまする。お目通りを」
 
「うむ」
 おれはできる限り鷹揚にうなずきつつ、内心は緊張していた。
 相手は近習。主君の側近く仕える者なのに、おれはこいつとの距離感をどう保てば良いか分からなかった。

 建部は頭の切れる若者で、この国の最高権力者である仕置(しおき)家老、山田織部の親戚筋に当たる。織部の影響力を笠に着て、居丈高な態度が鼻につくんだよな。
 このおれにも馬鹿にするような視線を送ってきて、いちいち気に障る。おれのことなんか、主君だとは思ってないんだろうな。

 だが一方で、建部は同年代の親しみやすさを見せることもある。
「私には、お胸のうちをお話し下さって良いんですよ」
 とでも言うような、いかにも打ち解けた顔をして近寄ってくるんだ。
 そうなると、迷いが生じる。誰にも心を開くまいとした決意がふと、揺らいでしまうんだ。

 本音を言えば、誰だって友達が欲しいだろ? 殿様と家臣の間柄だって、同じことだ。

 だけど余計なことをしゃべって、あの山田織部につげ口をされるのは、絶対に嫌だ。
 腹の底が読めない奴。やっぱりもう少し様子を見ることにするよ。
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