第40話 信賞必罰
文字数 2,031文字
翌朝はきれいに晴れたわ。
大勢の人々がいるのに、城山は静寂に包まれている。どん、どん、という太鼓の音だけが、徳島のご城下にまで鳴り響いてる。
見送りの家中がずらりと整列する中、お殿様を乗せた駕籠は静かに遠ざかっていったわ。それを守るように、随行する藩士たちの行列が続いてる。
城山を降りたところ、助任川 沿いの福島橋には、丸に卍 の旗が揺れる蜂須賀家の御召 鯨船 、晴光丸 が待ってるはずよ。
「御船方 」と呼ばれる徳島藩の水軍は、森甚太夫 と甚五兵衛 の両家によって束ねられてる。森家はその昔、海の戦で活躍した一族だけど、戦のない今、彼らの役目は主に参勤時の蜂須賀家の海上輸送に替わってるんですって。
晴光丸で一行が徳島城下の入り口、住吉島まで行くと、そこでより大きな御座船 、至徳丸 に乗り換えて海を渡る。家臣団の船を合わせると、蜂須賀家の大名行列は三十隻以上の大船団なんですって。
大坂に着いた後は陸路となり、江戸へは中仙道を使うそうよ。山の中をずっと歩くっていうけれど、私に想像できるのは雲霧に包まれたはるかな道だけ。
この城内からは木々に遮られ、川までの眺望は利かなかった。船に乗るお殿様の姿は見えないわ。
だけど見送りの女たちは、船が川岸を離れたという報せが届くまで持ち場を離れないことになってる。私はきせを始め、伊賀組出身の侍女たちと一緒にひたすらお殿様の旅のご無事を祈り、入側で念仏を唱えてたわ。
お殿様がいなくなって、私の心は空白になってしまった。
おまけに悪阻 の苦しみが始まった。人が減らされて静かになった御殿で、私はほとんど寝たきりになって、鬱々と日々を過ごしたわ。
佐山市十郎は城中での勤務を終えるとすぐにやってくるようで、襖の向こうに彼の声が聞こえることがある。でも彼はきせに様子を伺い、私が臥せっていると知るとそのまま帰ってるみたい。
それでも私の体調がいくらか落ち着き、何とか起き上がれる程度になってくると、さっそく市十郎から林建部に会うように懇願されたわ。
「これからは、主君派とでもいうべきものを作らねばなりませぬ。ぜひとも建部殿に目通りを」
市十郎はそう言って頭を下げた。
「気が進まないわねえ……」
私は余計にムカムカして、胸を押さえたわ。
そもそも建部って、織部に従い、お殿様の暗殺を命じてきた男よ? あいつ、土壇場で寝返ったらしいけど、あれほど信用できない男もいないじゃないの。
「主君派をまとめる役なら、あなたがやればいいじゃない。殿のご信頼も得ているんだし」
私はとにかくそれを強調したわ。
「これまでの経緯を考えれば、あなたが一番の側近になってしかるべきよね」
だけど市十郎って、自分が前に出ようとはしない男よ。頑なに首を振ったわ。
「それがしでは駄目です。格が劣りますゆえ、人がついて参りませぬ」
ふうん、と私は冷めた返事しかできなかった。やっぱりこの世は生まれがすべてで、身分と家柄で何もかもが決まるのかしら。何て夢のない話なの。
お殿様はそんな現実を少しでも変えようとしてたのに。
と、私の意識はまたも遠くへ行ってしまう。そうよ、あのお方はそういう意味でも格が違ってたわ。あんたも少しは見習いなさいよ。
だけどそんな私をよそに、市十郎は主張し続けた。
「筆頭に立つのはやはり家老か、せめて中老階級でなくてはなりませぬ」
であればこそ人はその実行力を信用する、というのがこの男の言い分だった。
「それが阿波の現実にござる。きれいごとを言っているだけでは何も動きませぬ」
そこまで言われちゃ、しょうがないわね。いいわよ、織部を倒すためなら何でもやってやろうじゃないの。
別に会いたくもない相手だったけど、私は市十郎の助言通り、建部を呼び出した。
だけど当の建部ときたら、何だか見当違いの反応だったのよ。市十郎が何も言っていないのに、建部の方は掻取 の裾を引きずって現れた私を見て、おおっと叫んだわ。
「これは見違えたな。別人のように美しいではないか」
どうせ美しいのは私じゃなくて着物でしょ、と言いたいぐらいだったけど、建部は無遠慮に見回してくる。
「やっぱり殿のお側に上がるというのは、かくも違うんだなあ」
けっ。何よ、私のことさんざん馬鹿にしてきたくせに。道具のようにしか思ってこなかったくせに!
内心舌打ちしたいぐらいだったけど、お殿様のためを思えば、この男を敵に回しちゃいけなかった。どっちもどっち、お互いに裏切り者なんだからと自分に言い聞かせ、私はあえて反論しなかったわ。
「あのときはほんと、覚悟を決めるまで大変だったぞ」
建部は恩着せがましく、何度も同じことを言った。
「御前評定の流れを変えるとは、並大抵のことじゃないんだ。それも、自分の命だけならまだいい。一族郎党を危険にさらすんだよ」
それをやり遂げた自分は相応の評価を受けてしかるべき。信賞必罰だ。
悪びれもせずそんなことを言う建部の横で、もう一人の功労者、市十郎はじっと黙ってたわ。
大勢の人々がいるのに、城山は静寂に包まれている。どん、どん、という太鼓の音だけが、徳島のご城下にまで鳴り響いてる。
見送りの家中がずらりと整列する中、お殿様を乗せた駕籠は静かに遠ざかっていったわ。それを守るように、随行する藩士たちの行列が続いてる。
城山を降りたところ、
「
晴光丸で一行が徳島城下の入り口、住吉島まで行くと、そこでより大きな
大坂に着いた後は陸路となり、江戸へは中仙道を使うそうよ。山の中をずっと歩くっていうけれど、私に想像できるのは雲霧に包まれたはるかな道だけ。
この城内からは木々に遮られ、川までの眺望は利かなかった。船に乗るお殿様の姿は見えないわ。
だけど見送りの女たちは、船が川岸を離れたという報せが届くまで持ち場を離れないことになってる。私はきせを始め、伊賀組出身の侍女たちと一緒にひたすらお殿様の旅のご無事を祈り、入側で念仏を唱えてたわ。
お殿様がいなくなって、私の心は空白になってしまった。
おまけに
佐山市十郎は城中での勤務を終えるとすぐにやってくるようで、襖の向こうに彼の声が聞こえることがある。でも彼はきせに様子を伺い、私が臥せっていると知るとそのまま帰ってるみたい。
それでも私の体調がいくらか落ち着き、何とか起き上がれる程度になってくると、さっそく市十郎から林建部に会うように懇願されたわ。
「これからは、主君派とでもいうべきものを作らねばなりませぬ。ぜひとも建部殿に目通りを」
市十郎はそう言って頭を下げた。
「気が進まないわねえ……」
私は余計にムカムカして、胸を押さえたわ。
そもそも建部って、織部に従い、お殿様の暗殺を命じてきた男よ? あいつ、土壇場で寝返ったらしいけど、あれほど信用できない男もいないじゃないの。
「主君派をまとめる役なら、あなたがやればいいじゃない。殿のご信頼も得ているんだし」
私はとにかくそれを強調したわ。
「これまでの経緯を考えれば、あなたが一番の側近になってしかるべきよね」
だけど市十郎って、自分が前に出ようとはしない男よ。頑なに首を振ったわ。
「それがしでは駄目です。格が劣りますゆえ、人がついて参りませぬ」
ふうん、と私は冷めた返事しかできなかった。やっぱりこの世は生まれがすべてで、身分と家柄で何もかもが決まるのかしら。何て夢のない話なの。
お殿様はそんな現実を少しでも変えようとしてたのに。
と、私の意識はまたも遠くへ行ってしまう。そうよ、あのお方はそういう意味でも格が違ってたわ。あんたも少しは見習いなさいよ。
だけどそんな私をよそに、市十郎は主張し続けた。
「筆頭に立つのはやはり家老か、せめて中老階級でなくてはなりませぬ」
であればこそ人はその実行力を信用する、というのがこの男の言い分だった。
「それが阿波の現実にござる。きれいごとを言っているだけでは何も動きませぬ」
そこまで言われちゃ、しょうがないわね。いいわよ、織部を倒すためなら何でもやってやろうじゃないの。
別に会いたくもない相手だったけど、私は市十郎の助言通り、建部を呼び出した。
だけど当の建部ときたら、何だか見当違いの反応だったのよ。市十郎が何も言っていないのに、建部の方は
「これは見違えたな。別人のように美しいではないか」
どうせ美しいのは私じゃなくて着物でしょ、と言いたいぐらいだったけど、建部は無遠慮に見回してくる。
「やっぱり殿のお側に上がるというのは、かくも違うんだなあ」
けっ。何よ、私のことさんざん馬鹿にしてきたくせに。道具のようにしか思ってこなかったくせに!
内心舌打ちしたいぐらいだったけど、お殿様のためを思えば、この男を敵に回しちゃいけなかった。どっちもどっち、お互いに裏切り者なんだからと自分に言い聞かせ、私はあえて反論しなかったわ。
「あのときはほんと、覚悟を決めるまで大変だったぞ」
建部は恩着せがましく、何度も同じことを言った。
「御前評定の流れを変えるとは、並大抵のことじゃないんだ。それも、自分の命だけならまだいい。一族郎党を危険にさらすんだよ」
それをやり遂げた自分は相応の評価を受けてしかるべき。信賞必罰だ。
悪びれもせずそんなことを言う建部の横で、もう一人の功労者、市十郎はじっと黙ってたわ。