第32話 反論
文字数 2,415文字
これはおれの宣戦布告だ。
織部を睨みつつ、自分の懐から一枚の書付 を取り出す。佐助が横から受け取ろうと両手を差し出したが、おれは空いた方の手で押しとどめた。
「良い、これは自分で読む」
佐助と入れ違いに立ち上がり、バサッと音を立てて紙を開く。
数日かけて練りに練った内容だった。
大きく息を吸って、おれは大声で読み上げる。
「……そもそも大臣とは、主君の誤りを糾 すのを任とする」
そうなのだ。だから旧格を申し立て、悪しき制度に固執するのは誤りなのだ。
おれは織部の主張に対し、一つ一つ反論していった。
織部は「三年 道 を改めず」という論語の言葉を引き合いにしていたが、同じく論語の註 の中では、「大事は三年を待たずして可」という真逆のことが書かれている。要は臨機応変ということではないか。
また、養子と実子とで「父子の親 」が異なるということも書かれていたが、それには典拠がないようだ。聖なる思想家、孔子はそんなことを言っていない。
それから、能力重視の新法を打ち立てることは、阿波においても前例がある(ちなみにおれは自分で過去の記録に片っ端から目を通し、それを突き止めた)。だから家格を守ることが阿波の伝統とも言い難い。
いずれも、渾身の思いで書いた文章だった。
分かって欲しいんだ。おれがどれほど真剣にこの国の繁栄を願っているか、この国のために力を尽くしたいと思っているか。下段の間のさらにその向こうにまで、この真摯な気持ちを届けたかった。
読み終えて目を上げると、大勢の徳島藩士たちの驚愕した顔に出会った。変化というものをまるで知らない人々の反応だ。
左側の織部だけは下を向いている。仕方なく右側を見ると、ぽかんと口を開けた白髪の賀嶋 上総 と目が合った。
すぐに問いかける。
「そちの感想はいかなるものであるか」
「……ああ、いや……」
上総は慌てた様子で、手の甲で額の汗を拭った。
「……何と申しますか……至極 ごもっとも、というより他はござりませぬ」
その隣にいる、息子の賀嶋備前 にも聞いた。
「備前はどうか」
おれより少し年上のこの若者は、むすっと不機嫌な表情を見せただけで何も言わない。
今度は織部の隣にいる、池田登にも目を向ける。
「池田は」
やはり無言である。
家老は以上の四名である。静まり返る家臣団を前に、おれは自ら大きく声を張り上げた。
「では総意を得たということで良かろう。次に、先日の役席役高 の制についての審議に移る」
「お待ちくだされ、殿」
さえぎったのは山田織部だ。この後に及んでまだ不敵な目をしている。
「誰もまだ、殿について行くと申したわけではございませんぞ。暴走はおやめ下され。お見苦しゅうござる」
えらの張った織部の四角い顔を、おれはじっと睨みつけた。
おのれ、主君を主君とも思わぬその態度!
が、敵はその程度ではひるまない。逆にこのおれを指差してきた。
「だいたい、その妙なご新法は何でござる。およそ現実的な内容とは思えませぬ。なあ、賀嶋どの?」
いきなり同意を求められた賀嶋上総は、主君と仕置家老との間に視線を泳がせながら、「あ~」とか「う~」とかうなるばかりだ。
しばらくその場に沈黙が続いたが、上総はどうにか自分を取り戻したらしい。間抜け面を引っ込め、阿波の長老はごほんと咳払いをした。
「……ま、まあ、確かに先日の殿のご発案では、少禄者に与える足高 について、財源のご説明がございませなんだ」
一同が顔を見合わせ、ざわついた。
「そうか、財源が問題だ」
「確かにそうだ。御家の窮状を考えれば、新たな取り立てなどあろうはずがない」
様々な声があるはずだが、近くの席からはとにかく否定的な言葉が聞こえる。
しらじらしい。自分たちは高禄を得ておいて、よく言うよな。
おれは扇子を手に打ち付ける。
「財源だと? わしに付き従う気があるのなら、自らの禄を返上するぐらいの気構えを見せたらどうじゃ」
家臣は、主君から「御恩」としての禄を与えられている身だ。こう言われれば、本来なら引けないはずだった。
しかしこの程度の小さな針を刺したところで、織部らは痛くもかゆくもないのだ。座席衆は逆に呆れた表情を交わし、静かに笑い合っている。
膝の上で拳が震える。この家の当主となって五年。これが現実だ。いまだに家中を掌握できていないという、情けない事態。
環境の悪さのせいとばかりは言えないだろう。これは、おのれの未熟さゆえなのだ。
ふと林建部 を思い出した。
なぜ黙っている、と中段の間に目を向けると、建部は何と前の者の背中に隠れるようにして、おれと目を合わせぬようにうつむいていた。何たるザマだ。
だが建部だけではない。廊下を見ると、市十郎や誓詞に名を連ねた目付役も同じことだった。勇気が出ないのは、全員が同じということか。
絶望のあまり、一瞬、涙が出そうになった。
お前ら、一緒に織部と戦ってくれるって言ったじゃないか! おれが意見を発表したら、一斉に同調の声を上げてくれる手はずになってたじゃないか!
とはいえ、ここまで大々的に勝負に出た以上、後には引けなかった。これは戦なのだ、とおれは自分に言い聞かせる。策の通りに事が運ばぬことなどいくらでもある。おれはたった一人でも戦うぞ。
決断して、おれは立ち上がった。
つかつかと歩いて織部たちの背後を回り、中段の間の敷居際に立った。そこには中老たちが居並んでいて、藩主の異様な行動に恐る恐る目を上げている。
「そのほうらも遠慮はいらぬ。意見を申せ」
おれはさらに顔を上げ、中老たちの向こうにまでも声を張り上げた。
「下段の者も、直答 を許すぞ」
そうは言われても、怖くて発言などできるか、という彼らの心の声が聞こえるようである。誰も自分が一番に発言しようとはしなかった。
背後から織部が呆れたように言ってきた。
「無駄ですよ、殿」
悠々とした声で、織部は続ける。
「我ら阿波の家中、結束は固うござる」
織部を睨みつつ、自分の懐から一枚の
「良い、これは自分で読む」
佐助と入れ違いに立ち上がり、バサッと音を立てて紙を開く。
数日かけて練りに練った内容だった。
大きく息を吸って、おれは大声で読み上げる。
「……そもそも大臣とは、主君の誤りを
そうなのだ。だから旧格を申し立て、悪しき制度に固執するのは誤りなのだ。
おれは織部の主張に対し、一つ一つ反論していった。
織部は「
また、養子と実子とで「父子の
それから、能力重視の新法を打ち立てることは、阿波においても前例がある(ちなみにおれは自分で過去の記録に片っ端から目を通し、それを突き止めた)。だから家格を守ることが阿波の伝統とも言い難い。
いずれも、渾身の思いで書いた文章だった。
分かって欲しいんだ。おれがどれほど真剣にこの国の繁栄を願っているか、この国のために力を尽くしたいと思っているか。下段の間のさらにその向こうにまで、この真摯な気持ちを届けたかった。
読み終えて目を上げると、大勢の徳島藩士たちの驚愕した顔に出会った。変化というものをまるで知らない人々の反応だ。
左側の織部だけは下を向いている。仕方なく右側を見ると、ぽかんと口を開けた白髪の
すぐに問いかける。
「そちの感想はいかなるものであるか」
「……ああ、いや……」
上総は慌てた様子で、手の甲で額の汗を拭った。
「……何と申しますか……
その隣にいる、息子の賀嶋
「備前はどうか」
おれより少し年上のこの若者は、むすっと不機嫌な表情を見せただけで何も言わない。
今度は織部の隣にいる、池田登にも目を向ける。
「池田は」
やはり無言である。
家老は以上の四名である。静まり返る家臣団を前に、おれは自ら大きく声を張り上げた。
「では総意を得たということで良かろう。次に、先日の
「お待ちくだされ、殿」
さえぎったのは山田織部だ。この後に及んでまだ不敵な目をしている。
「誰もまだ、殿について行くと申したわけではございませんぞ。暴走はおやめ下され。お見苦しゅうござる」
えらの張った織部の四角い顔を、おれはじっと睨みつけた。
おのれ、主君を主君とも思わぬその態度!
が、敵はその程度ではひるまない。逆にこのおれを指差してきた。
「だいたい、その妙なご新法は何でござる。およそ現実的な内容とは思えませぬ。なあ、賀嶋どの?」
いきなり同意を求められた賀嶋上総は、主君と仕置家老との間に視線を泳がせながら、「あ~」とか「う~」とかうなるばかりだ。
しばらくその場に沈黙が続いたが、上総はどうにか自分を取り戻したらしい。間抜け面を引っ込め、阿波の長老はごほんと咳払いをした。
「……ま、まあ、確かに先日の殿のご発案では、少禄者に与える
一同が顔を見合わせ、ざわついた。
「そうか、財源が問題だ」
「確かにそうだ。御家の窮状を考えれば、新たな取り立てなどあろうはずがない」
様々な声があるはずだが、近くの席からはとにかく否定的な言葉が聞こえる。
しらじらしい。自分たちは高禄を得ておいて、よく言うよな。
おれは扇子を手に打ち付ける。
「財源だと? わしに付き従う気があるのなら、自らの禄を返上するぐらいの気構えを見せたらどうじゃ」
家臣は、主君から「御恩」としての禄を与えられている身だ。こう言われれば、本来なら引けないはずだった。
しかしこの程度の小さな針を刺したところで、織部らは痛くもかゆくもないのだ。座席衆は逆に呆れた表情を交わし、静かに笑い合っている。
膝の上で拳が震える。この家の当主となって五年。これが現実だ。いまだに家中を掌握できていないという、情けない事態。
環境の悪さのせいとばかりは言えないだろう。これは、おのれの未熟さゆえなのだ。
ふと林
なぜ黙っている、と中段の間に目を向けると、建部は何と前の者の背中に隠れるようにして、おれと目を合わせぬようにうつむいていた。何たるザマだ。
だが建部だけではない。廊下を見ると、市十郎や誓詞に名を連ねた目付役も同じことだった。勇気が出ないのは、全員が同じということか。
絶望のあまり、一瞬、涙が出そうになった。
お前ら、一緒に織部と戦ってくれるって言ったじゃないか! おれが意見を発表したら、一斉に同調の声を上げてくれる手はずになってたじゃないか!
とはいえ、ここまで大々的に勝負に出た以上、後には引けなかった。これは戦なのだ、とおれは自分に言い聞かせる。策の通りに事が運ばぬことなどいくらでもある。おれはたった一人でも戦うぞ。
決断して、おれは立ち上がった。
つかつかと歩いて織部たちの背後を回り、中段の間の敷居際に立った。そこには中老たちが居並んでいて、藩主の異様な行動に恐る恐る目を上げている。
「そのほうらも遠慮はいらぬ。意見を申せ」
おれはさらに顔を上げ、中老たちの向こうにまでも声を張り上げた。
「下段の者も、
そうは言われても、怖くて発言などできるか、という彼らの心の声が聞こえるようである。誰も自分が一番に発言しようとはしなかった。
背後から織部が呆れたように言ってきた。
「無駄ですよ、殿」
悠々とした声で、織部は続ける。
「我ら阿波の家中、結束は固うござる」