第49話 江戸の蒔絵師
文字数 2,103文字
宝暦十二年の春。祈りが通じたのか、お殿様は無事に阿波へご帰国されたわ。
よくぞ山伏の呪いに負けずにいて下さったこと。私はお殿様を遠巻きに見つめながら、実はあれは亡霊で、今すぐにそのお姿が消えてしまうんじゃないかって、自分の手をこっそりつねって確かめてしまったほどよ。
だけどようやく二人きりになって、そのお体に触れた時、お殿様が私のところへ帰ってきて下さったんだって実感できたの。
私はその場に泣き崩れた。
「よくぞ……よくぞご無事で、お戻りなされました」
事情を知らぬお殿様は不思議そうな顔をして、そんな私をじっとご覧になっていたわ。
だけどやがて、思い出したように小さな桐箱を差し出してきた。
「お楽に土産じゃ。開けてみよ」
私は涙を拭き、とりあえず受け取ったわ。
内心では、またか、と思ってた。私はぜいたくを知らずに育ったせいか、物欲はあまりない方なの。江戸土産も珍しいと思ったのは最初だけで、あとはどうでも良くなった。私がこういうのをさほど喜ばないって、お殿様はもうご存じなのに。
だけどお殿様は、私の反応を期待してじっと見つめてくるのよね。この場で開けないわけにはいかなかった。
取り出すと、中身は黒漆 の棗 だった。黒い素地に、金粉で凹凸のある四角い模様が描かれてる。
「……ありがとう存じます」
私は笑顔を作ってそう言い、それを畳の上に置いた。
どんなに高価な物か知らないけど、お土産なんか見てる暇があったら、久々に会うお殿様の端正なお顔を少しでも見ていたいわ。
だけどお殿様は、え、と少し驚いた表情をなさった。
宝物の価値が分からない私に、ちょっと不満を覚えたのかもしれない。お殿様はご自分から私の方へにじり寄ると、片膝をついてその棗を手に取ったわ。
「……これは、お楽のために作らせた逸品なのじゃ」
お殿様は力を込めて語り出した。
「江戸で蒔絵 師を召し抱えた。飯塚桃葉 といって、変わり者だが、腕は確かじゃ」
はっとした。お殿様はこの私のために、職人まで抱えて下さったっていうの?
「徳島の地に、絶世の美女がおる、彼女にふさわしい棗を作れと申したのじゃ」
お殿様は私の機嫌を取ろうとして、そんなことまで仰った。
そして手の中の棗を回し、ほら、とその文様を指さすの。
「ここに描かれているのは源氏香なんだ。蒔絵の技をいくつも組み合わせて、この絵柄を表現しているんだ。な、見事な職人芸だろ?」
「んまあ、本当に、お見事にございますわ!」
私は慌てて、胸いっぱいの感動を表現する。
「あまりの素晴らしさに、言葉もございません」
「だろ? お楽に似合う茶入れだと思うぞ」
お殿様がうなずいたので、とりあえず私はほっとした。ここで教養のない、つまらない女だと断定されるわけにはいかなかった。
お殿様は特に疑うようなこともなく、桃葉という職人の変人っぷりをお話しになった。私は感心を装って、大きくうなずきながら聞いたわ。
あながちつまらないものでもなかった。徳島藩お抱えの身となり、藩の江戸屋敷に住むことを許されても、そいつは無宿人のようなぼさぼさ頭を改めないんですって。しかも裸でそこら中を歩き回るから、藩士たちから苦情が出てるんですって。
だけど蒔絵の技術は相当なもので、いざ作品のこととなると相手がお殿様だろうが何だろうが、一歩も引くことなく自論を展開するんですって。
「ああいう、歯に衣着せぬ物言いが、わしは嫌いではない。むしろ家中の範として示してやりたいぐらいだ」
うれしそうに言うお殿様の、そのお顔を見てるだけで、私までがうれしくなってくる。
そうよね。私はあれからもお茶の勉強を形ばかり続けてるけど、お道具のこと、漆芸や蒔絵のことまではよく分からない。だけどお殿様は江戸にいらっしゃっても、この私のことを気にかけて下さるんだもの。もう少し、そのご期待に応えなくちゃ。
「では後ほど、このお棗でお茶を点てましょう」
とりあえずそう言うと、お殿様はその言葉を待っていたようだった。
「うむ。そうしてくれ」
「だけど、その前に……」
私はお殿様の首に両手を回し、熱を込めてその目を見上げたわ。ずうっと待ってたんだもの、いいでしょう? 私はもう我慢できないわ。今すぐ可愛がってくれなくちゃ、あなたを解放してあげないんだから。
「いや、ちょっと待て、お楽。まだ昼間だし」
お殿様は焦ったお声を上げ、辺りを見回されたけれど、きせたちは心得たもので、さっと立ち上がって姿を消していった。
私は両手でお殿様のお顔を包み込んだ。
以前と何も変わらない、その涼やかな目。ここにいるのは、ご改革に燃える有能な徳島藩主。私はそれを見られるだけで、夢でも見るかのように、うっとりとしてしまうの。
私たちは、畳の上に転がり込んだ。
耳元でお殿様のため息が漏れる。その手が、私の着物の裾を滑り込んでくる。
そうよ、今すぐに抱いて。私たちは絶対にうまくいくんだから。
だけどお殿様の肩越しに天井板を眺めたとき、そこに浮き出た木の目に私はふっと我に返った。
そのためには、早く山田織部を片付けなければ。
戸外では、春の終わりを告げる黒雲が垂れ込めてる。
よくぞ山伏の呪いに負けずにいて下さったこと。私はお殿様を遠巻きに見つめながら、実はあれは亡霊で、今すぐにそのお姿が消えてしまうんじゃないかって、自分の手をこっそりつねって確かめてしまったほどよ。
だけどようやく二人きりになって、そのお体に触れた時、お殿様が私のところへ帰ってきて下さったんだって実感できたの。
私はその場に泣き崩れた。
「よくぞ……よくぞご無事で、お戻りなされました」
事情を知らぬお殿様は不思議そうな顔をして、そんな私をじっとご覧になっていたわ。
だけどやがて、思い出したように小さな桐箱を差し出してきた。
「お楽に土産じゃ。開けてみよ」
私は涙を拭き、とりあえず受け取ったわ。
内心では、またか、と思ってた。私はぜいたくを知らずに育ったせいか、物欲はあまりない方なの。江戸土産も珍しいと思ったのは最初だけで、あとはどうでも良くなった。私がこういうのをさほど喜ばないって、お殿様はもうご存じなのに。
だけどお殿様は、私の反応を期待してじっと見つめてくるのよね。この場で開けないわけにはいかなかった。
取り出すと、中身は黒
「……ありがとう存じます」
私は笑顔を作ってそう言い、それを畳の上に置いた。
どんなに高価な物か知らないけど、お土産なんか見てる暇があったら、久々に会うお殿様の端正なお顔を少しでも見ていたいわ。
だけどお殿様は、え、と少し驚いた表情をなさった。
宝物の価値が分からない私に、ちょっと不満を覚えたのかもしれない。お殿様はご自分から私の方へにじり寄ると、片膝をついてその棗を手に取ったわ。
「……これは、お楽のために作らせた逸品なのじゃ」
お殿様は力を込めて語り出した。
「江戸で
はっとした。お殿様はこの私のために、職人まで抱えて下さったっていうの?
「徳島の地に、絶世の美女がおる、彼女にふさわしい棗を作れと申したのじゃ」
お殿様は私の機嫌を取ろうとして、そんなことまで仰った。
そして手の中の棗を回し、ほら、とその文様を指さすの。
「ここに描かれているのは源氏香なんだ。蒔絵の技をいくつも組み合わせて、この絵柄を表現しているんだ。な、見事な職人芸だろ?」
「んまあ、本当に、お見事にございますわ!」
私は慌てて、胸いっぱいの感動を表現する。
「あまりの素晴らしさに、言葉もございません」
「だろ? お楽に似合う茶入れだと思うぞ」
お殿様がうなずいたので、とりあえず私はほっとした。ここで教養のない、つまらない女だと断定されるわけにはいかなかった。
お殿様は特に疑うようなこともなく、桃葉という職人の変人っぷりをお話しになった。私は感心を装って、大きくうなずきながら聞いたわ。
あながちつまらないものでもなかった。徳島藩お抱えの身となり、藩の江戸屋敷に住むことを許されても、そいつは無宿人のようなぼさぼさ頭を改めないんですって。しかも裸でそこら中を歩き回るから、藩士たちから苦情が出てるんですって。
だけど蒔絵の技術は相当なもので、いざ作品のこととなると相手がお殿様だろうが何だろうが、一歩も引くことなく自論を展開するんですって。
「ああいう、歯に衣着せぬ物言いが、わしは嫌いではない。むしろ家中の範として示してやりたいぐらいだ」
うれしそうに言うお殿様の、そのお顔を見てるだけで、私までがうれしくなってくる。
そうよね。私はあれからもお茶の勉強を形ばかり続けてるけど、お道具のこと、漆芸や蒔絵のことまではよく分からない。だけどお殿様は江戸にいらっしゃっても、この私のことを気にかけて下さるんだもの。もう少し、そのご期待に応えなくちゃ。
「では後ほど、このお棗でお茶を点てましょう」
とりあえずそう言うと、お殿様はその言葉を待っていたようだった。
「うむ。そうしてくれ」
「だけど、その前に……」
私はお殿様の首に両手を回し、熱を込めてその目を見上げたわ。ずうっと待ってたんだもの、いいでしょう? 私はもう我慢できないわ。今すぐ可愛がってくれなくちゃ、あなたを解放してあげないんだから。
「いや、ちょっと待て、お楽。まだ昼間だし」
お殿様は焦ったお声を上げ、辺りを見回されたけれど、きせたちは心得たもので、さっと立ち上がって姿を消していった。
私は両手でお殿様のお顔を包み込んだ。
以前と何も変わらない、その涼やかな目。ここにいるのは、ご改革に燃える有能な徳島藩主。私はそれを見られるだけで、夢でも見るかのように、うっとりとしてしまうの。
私たちは、畳の上に転がり込んだ。
耳元でお殿様のため息が漏れる。その手が、私の着物の裾を滑り込んでくる。
そうよ、今すぐに抱いて。私たちは絶対にうまくいくんだから。
だけどお殿様の肩越しに天井板を眺めたとき、そこに浮き出た木の目に私はふっと我に返った。
そのためには、早く山田織部を片付けなければ。
戸外では、春の終わりを告げる黒雲が垂れ込めてる。