第4話 潤んだ瞳
文字数 1,283文字
美人、というのとは少し違う気もするが、三白眼の、刃 のような目の奥にたぎるような炎がある。こんなに強い印象の顔で出歩いていれば、山奥でなくてもすぐに覚えられてしまうのではなかろうか。
おれは疑問と驚きとでしばらく声を失ったが、すぐに我に返り、目を反らした。
藩主が一瞬でも女の顔に見とれた、なんてことがあってはならない。得体の知れないその呪縛から逃れるため、おれは瞬きを繰り返した。
「……そなた、名は何という」
いつもの自分に戻ろうとしてそう聞いた。しかし女は相変わらず声を発しないどころか、何を思っているのか、まったくの無表情だ。
代わりに、背後から林建部が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「殿!」
小声だが、とがめるような声だった。見ると、建部は首を小さく横に振っている。女に名を問い、その顔に見入ることの意味を知らせているのだろう。
むろん、おれにそんな気はない。妙な勘繰りはやめてもらいたいものだ。
だが質問はすでに発せられてしまっていた。女の隣にいる弥左衛門はどうしたものか迷ったようだったが、やがて遠慮がちに言上してきた。
「忍びに名などございませんが、よろしければお楽と呼んでやって下さりませ。旅の間はそのように呼んでおりました」
よりによってお楽とは、と思った。どこか悲壮感さえ漂うこの娘におよそ不釣り合いな名ではないか。
それはどこか、他人に快楽を与える役目を感じさせる。いや、周囲の誰かが厳しい現実の中でせめてもの安楽を願って付けてやったものかもしれず、できればそう思いたいものだった。
おれはうなずき、振り切るようにして立ち上がった。こっちも疲れているが、彼らはそれ以上だろう。
「とにかく無事で良かった。早う帰って休むが良い」
ところが床几まで戻ったところで、あっと小さく声が出た。
褒美をやると言っておきながら、忘れた。まったく、おれとしたことが。
「建部、建部」
おれは振り向いて手招きした。建部が駆け戻ってくると、中間の持つ鋏箱 を指した。
「巾着が一つ、あっただろ」
建部は何か言いたげな表情をしつつも、けっきょくは中間 に箱を開けさせ、ひざまずいて中から金襴地の巾着袋を取り出した。
「……こちらでございますか」
おれはうなずいた。いくばくかの金子 が入っているはずである。
「あの者らに」
顎で指し示すと、建部は両手で袋を目よりも高くささげ持った。
「御意」
自分の馬が引かれてきて、おれは手綱を受け取った。
だが足は動かず、すぐに乗る気がしなかった。なぜか胸が震えている。
もう一度弥左衛門たちの方を振り返ったら、女もまた潤んだ瞳でおれを見ていた。目が合ってしまったので、女は慌てて顔を伏せている。
黒い漆塗りの鐙 には、やはり蜂須賀家の丸に卍 の紋が入っている。おれは振り切るようにそこへ足をかけ、ひらりとまたがった。
徳島城に戻ったらすぐに体を清め、今度は正装して宴に出ねばならない。藩主たるもの、少しも休んでいる暇はないのだ。
「参る」
人々をうながしつつ、おれは馬の腹に合図を出す。夕刻の風の中、わらじを履いた馬の足がぽくぽくと音を立て始めた。
おれは疑問と驚きとでしばらく声を失ったが、すぐに我に返り、目を反らした。
藩主が一瞬でも女の顔に見とれた、なんてことがあってはならない。得体の知れないその呪縛から逃れるため、おれは瞬きを繰り返した。
「……そなた、名は何という」
いつもの自分に戻ろうとしてそう聞いた。しかし女は相変わらず声を発しないどころか、何を思っているのか、まったくの無表情だ。
代わりに、背後から林建部が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「殿!」
小声だが、とがめるような声だった。見ると、建部は首を小さく横に振っている。女に名を問い、その顔に見入ることの意味を知らせているのだろう。
むろん、おれにそんな気はない。妙な勘繰りはやめてもらいたいものだ。
だが質問はすでに発せられてしまっていた。女の隣にいる弥左衛門はどうしたものか迷ったようだったが、やがて遠慮がちに言上してきた。
「忍びに名などございませんが、よろしければお楽と呼んでやって下さりませ。旅の間はそのように呼んでおりました」
よりによってお楽とは、と思った。どこか悲壮感さえ漂うこの娘におよそ不釣り合いな名ではないか。
それはどこか、他人に快楽を与える役目を感じさせる。いや、周囲の誰かが厳しい現実の中でせめてもの安楽を願って付けてやったものかもしれず、できればそう思いたいものだった。
おれはうなずき、振り切るようにして立ち上がった。こっちも疲れているが、彼らはそれ以上だろう。
「とにかく無事で良かった。早う帰って休むが良い」
ところが床几まで戻ったところで、あっと小さく声が出た。
褒美をやると言っておきながら、忘れた。まったく、おれとしたことが。
「建部、建部」
おれは振り向いて手招きした。建部が駆け戻ってくると、中間の持つ
「巾着が一つ、あっただろ」
建部は何か言いたげな表情をしつつも、けっきょくは
「……こちらでございますか」
おれはうなずいた。いくばくかの
「あの者らに」
顎で指し示すと、建部は両手で袋を目よりも高くささげ持った。
「御意」
自分の馬が引かれてきて、おれは手綱を受け取った。
だが足は動かず、すぐに乗る気がしなかった。なぜか胸が震えている。
もう一度弥左衛門たちの方を振り返ったら、女もまた潤んだ瞳でおれを見ていた。目が合ってしまったので、女は慌てて顔を伏せている。
黒い漆塗りの
徳島城に戻ったらすぐに体を清め、今度は正装して宴に出ねばならない。藩主たるもの、少しも休んでいる暇はないのだ。
「参る」
人々をうながしつつ、おれは馬の腹に合図を出す。夕刻の風の中、わらじを履いた馬の足がぽくぽくと音を立て始めた。