第82話 お裁き

文字数 3,781文字

 武蔵の国、(わらび)宿を出て間もない中仙道の道中。
 蜂須賀家の行列は道端に避け、止まっている。休息のためではない。

「調べよ! なぜこういうことが起こるのじゃ」
 おれは斬られた袖をぶらつかせたまま、怒りにまかせて近習を叱りつけている。人々は恐懼(きょうく)して、ただただひれ伏している。

 本当は大声を出す余裕もなかった。額には脂汗が浮いている。今こうして駕籠の外に出ているのも、あるいは危険なのかもしれない。

 警戒はしていたのだ。今回の参勤は、何となく危ないという気がしていた。山中でもおかしなことが何度も起きた。明らかに刺客に襲われたわけではなかったが、見知らぬ者がふいに近づいてきておれに体をぶつけてくるなど、通常の大名行列では起こるはずのないことが起こった。それも一度ならず、二度、いや三度だ。

 おれは心を許せる少数の側近しか、寄せ付けないようにした。そして、どうにかここまで無事に来た。
 もう江戸は目と鼻の先だ。街道を行きかう百姓町人の人数も多くなっている。
 なのに、今度ははっきりと身の危険を感じた。とにかく、ただ事ではなかった。

 先ほどのことだ。駕籠が急にがくんと揺れて、止まった。
 近習の報告によれば、諸国を回る芸人と見える集団が、ふいに行列の前を横切ったのだという。
「ただいま事情を聞いておりますゆえ、少々お待ちくだされ」

 おれは黙っていた。胸がとどろいていた。なぜ即座に「切り捨て御免」としないのだと言いたかった。
 だがその人々は、まさか蜂須賀家の行列だとは思わなかったのかもしれない。罪のない庶民を傷つけてはならぬというのがおれの信条だ。冷静になれと、自分に言い聞かせた。

 その直後のことだった。
 おれの左脇、朱房のかかった引き戸の隙間から、長い刃がずぶっと差し込まれてきたのである。
 幸い刃に触れることはなかったが、おれは信じがたい思いでそれが引き抜かれていくのを見た。駕籠の外では人々の話し声がかまびすしくて、藩主が何に直面しているかさえ気づいていないようだった。

 おれは直ちに引き戸を開け、人々を問いただした。
「何が起こったのじゃ。今、駕籠に近づいた者がおったろう」

 だが近習役はしどろもどろで、ちっとも埒が明かない。
 こうなればもう、行列の中に手引きしている者がいると考えるより他ないのかもしれなかった。だが参勤の途中で、むやみに人数を減らすわけにもいかない。周囲には腕の立つ者がおらず、何とも頼りないものだった。

 佐山市十郎を連れてくれば良かったな……。

 今さらそれを言っても仕方がなかった。自分の身は自分で守るのだ。再び動き出した駕籠の中、おれは耳をそばだて、脇差をずっと握り締めていた。

 いまだにこのような孤立の中に身を置かねばならぬほど、おれは家中に嫌われているのだろうか。山田織部に始まり、稲田九郎兵衛に至るまで、邪魔者はすべて片付けた。これ以上、誰がこのおれに楯突こうというのだ?

 奇跡というべきだろうか。一行は無事に江戸へ到着した。

 上屋敷に入り、駕籠を降りたところでおれはほっとした。出迎えてくれた江戸の家中に泣きつきたいほどだ。
 助けてくれ。命が狙われておる。

 そう言おうとして、おれははっと口をつぐんだ。江戸仕置家老、樋口内蔵助がやけに青白い顔をして進み出てきたからだ。

「……殿。お疲れのところ恐縮ですが、お話がございます」
 こっちも話したいことがある。そう言っても、なぜか内蔵助は自分の話が先だと言って聞かなかった。
「とにかく、書院の間へ」
 いつにない強情さに、おれは呆気に取られて内蔵助の後ろ姿を見送った。

「……もはや抜き差しならぬ、と。そう仰ったのでございます」
 魂の抜けたような声で、内蔵助は語った。おれと目を合わせようともしなかった。

 それはつい昨日のことだったらしい。老中松平武元(たけちか)との間を仲介する旗本がこの屋敷を訪れ、幕閣の意向を告げたのだ。

 阿波の国における騒擾は、到底看過できない。
 すでに蜂須賀家の断絶が検討されている。近いうちに吟味があるゆえ、お覚悟召されよ。
 大まかに言えば、そういう話だった。

「どういうことだ」
 おれは訳が分からず、内蔵助に食ってかかる。
「すでに当家には、お手伝い普請という裁きが下っておるではないか。これ以上の罰があるか。御家断絶なんて、どこからそんな話が出て参ったのだ」

「仰る通りにござる。ですが、その……」
 内蔵助は口ごもり、また目を逸らす。
「その、ご老中様は、稲田九郎兵衛の国外追放を重く見ておられるとかで……」
 
「稲田の件か!」
 おれは膝を打った。
「それなら、追放するだけの理由がこっちにあるのだ。おれが弁明してやる」

「駄目ですよ、それは」
 内蔵助が膝立ちになっておれを止める。
「稲田は殿にとって罪人に違いないでしょうが、ご老中様にとっては長年のご友人です。何より稲田家の由緒は破格のものですから」

 またもや、負けを思い知らされる。
 こういう時、おれは吐き気さえ覚える。稲田の奴、おれには「お友達人事は駄目ですぞ」とか何とか言っておきながら、自分はご老中様にすがったのか。結局は権威を振りかざすのか。
 だが内蔵助の言う通り、将軍家を上回るほどの稲田家の由緒は、徳島藩として無視できるものではなかった。だからこそおれも、あいつの命を奪うという処置にはためらってしまったのだ。

 内蔵助たち江戸詰めの藩士は、そろって使者に頼み込んだという。
「ご公儀の吟味の場に出るのは何としても避けとうございます。どうか穏便に事を済ませていただけませんか」
 松前とかいう、相手の旗本は答えてくれなかったらしい。彼はただの使者であって、最初からどうこうする権限がなかったのかもしれない。

 だが内蔵助の話を聞いているうち、おれの中で新たな疑念が急に頭をもたげてきた。
 目の前にいる、この人々もまたおれを裏切ったのではないか?
「そのほうら、まさか、わしの隠居と引き換えに御家存続を願ったのではあるまいな?」

 まさか、と思った。だが内蔵助も他の江戸詰藩士も、表情を変えず、何も口にしなかった。ただ「疲れた」という本音が、そのたたずまいににじみ出ている。おれにとってそれは肯定を意味していた。

「そのほうらだったのか!」
 怒りに打ち震え、おれは脇息を押し倒した。
「そのほうらが、わしを片付けようと討手(うって)を差し向けたのだな」

 内蔵助に殴りかかろうとしたとき、おれは左右から人々に取り押さえられた。
「誤解です、誤解にございまする、殿。討手など出してはおりませぬ」
 
 おれが藩士たちに羽交い絞めにされている間、あるいはこうなることを予想していたのかもしれない。内蔵助は、意外なほど冷静におれを見つめてきた。
「悔しいでしょう。納得など、できるものではないでしょう。それでも、どうか殿にご理解を賜りたいのです」

 徳島藩江戸家老は、淡々と語った。
 今の蜂須賀家には将軍家に対する恭順をひたすら示す他ないということ。たとえ濡れ衣に近いものがあったとしても、その誤解を招いたおれに責任を取ってもらうより他ないということ。

「くそ……」
 おれの目から絶望の涙がこぼれる。内蔵助は友達だったのに。目を掛けてやったのに。こいつまでが、おれの失脚を願っているなんて。
 何も気づかずにいた自分が情けなかった。一緒に旅をしてきた者も含め、全員がこうなることを知っていたのかもしれない。知らなかったのはおれだけだ。

 いつかのように、自らとともに蜂須賀家を滅ぼすという選択肢はなかった。縁組をする井伊家に迷惑を掛けられない。何より千松丸に無事家督をさせたいなら、今自分が身を引くより他ないのである。

 是非もない、とはこのことだった。
 観念したおれはその場に崩れ落ち、目を覆う。

「では、殿。早急に隠居願いをお出し頂けますな?」
 藩士の一人が急かすように言った。これを待っていたのだろう。
 だがこいつに怒りをぶつけても仕方がないことぐらい、おれにも分かっている。

「……そのほう、まずはその松前殿のお屋敷に参り、わしの存念を伝えよ」
 かすれた自分の声を、おれは他人事のように聞いた。
「隠居の儀、承った。しからば出願の手続きを進めるため、掃部頭(かもんのかみ)殿、讃岐守(さぬきのかみ)殿の同席を願いたいが、いかがか、と」
 せめて幕引きは、大藩の藩主にふさわしい威儀をもって執り行いたかった。井伊直幸(なおひで)や高松藩の松平頼起(よりおき)が同席してくれた上での隠居願いであれば、おれとしても体面を保つことができる。

 しかし旗本屋敷から戻ってきた藩士は、首を横に振るばかりだったのである。
「その儀に及ばずとのことにごさいます。両大名家との行き来は、しばらく見合わせるように。その上で沙汰を待つようにと」

 他藩へ悪影響を及ぼしかねない騒ぎを起こした蜂須賀家に、幕府は面目を施すことすら許してはくれないらしかった。おれは自らの勇退願いを出すことができないのだ。おそらく近日中に処罰として、おれに隠居命令が出されるのだろう。

 おれは天井を仰いでその報告を聞いた。体に力が入らず、もうまともに座ってもいられなかった。

「……内蔵助、教えてくれ」
 つぶやくと同時に、おれはすがりつくように脇息にもたれかかった。
「わしは、どこで誤ったのじゃ」

 内蔵助は何も答えない。ただ、震えるおれを慰めるように、そっと背中に丹前をかけてくれた。
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