第83話 夢の終焉

文字数 2,834文字

「貞観寺はこっちじゃないでしょう?」
 私は不審に思って振り向いた。

 山道をだいぶ上ってきたところだった。ここまで来て気づいた私も私だけど、一体どうしたんだろう?
 行列の後ろにいた佐山市十郎が、小さくうなずいた。
「下の道は先日の大雨で崩れ申した。復旧するまでは遠回りをせねばなりませぬ」
「……そう」

 私はまた歩き出した。ならばなぜ佐山は、こんな時にわざわざ墓参りなどを勧めたのかしら。

 大雨を降らせた雲が去り、地面にはきつい日差しが降り注いでる。

 周囲には、大谷御殿で新しく採用した侍女たち。彼女たちは伊賀者ではなくて、ちょっと気が利かないところがあるけれど、裕福な百姓町人の娘が多いのよね。身に着ける着物は一様に華やかだった。
 これも悪くはないのかもしれない。私の身のまわりの世話をさせることで、箔を付けるのに一役買ってくれてるもの。

 彼女たちに傘を差し向けさせ、行列はあでやかに歩を進めてる。段々畑で働く百姓が時おり手を休め、こちらを見た途端に度肝を抜かれたような顔をするのが分かったわ。

 それにしても暑いこと。

 だけど杉木立の陰の中に入ったら、ようやく涼しい風が流れてた。
 私がほっとした、その時。

 前を行く侍女が足を止めた。
 何かと思ったら、行く手に数人の男がいる。どの男も覆面をしていて、袴の股立ちを取り、襷をかけているようだった。

「何、何よ」
 侍女たちの肩越しに聞いたけど、なぜだか誰も答えてくれなかった。
 
 刀の鯉口を切る音がした。
 私は息を呑んだ。どの男も殺気立っていて普通じゃない。こちらを襲撃する意思がはっきりと感じられたわ。

 侍女たちは大きな悲鳴を上げ、まさに蜘蛛の子を散らすように逃げていった。私を守る気などまったくなくて、傘も荷物も投げ出したまま。情けないほどの慌てぶりだったわ。

「大谷どの、だな」
 と、一人の男が覆面の中から私に声を掛けてくる。
「徳島藩始まって以来の悪女。おのれの色香で殿を惑わし、国政難儀を招いた」
 男が何を言っているのか、分からない。私は一歩、二歩と後ずさりする。

 男が私をひたと見据え、抜刀する。切っ先が日差しにきらめいてる。
「おぬし一人のために、どれほどの庶民が苦しんだか知っておるか。着る物も食べる物もなく、百姓の子が次々と死んでいく中、おぬしは新しい御殿で笑っておった。これは家中領民の総意である。お覚悟召されよ」
 次々と男たちが刀を抜きはらう。私は動けなくなった。信じがたいことだけど、それは本当に起きていることだった。

 私は自分の胸元を押さえたまま、背後の佐山市十郎を呼んだわ。
「佐山! 佐山! 何してるの。早うこの者らを斬りなさい!」

 だけど反応がない。不思議に思って振り向いたとき、市十郎の凍りついた目とぶつかった。

 市十郎が低い声を発し、やれ、と命じた。

 何が起きているのか分からなかった。その瞬間、私の目に入ったのは、輝く木々の梢を透かす、秋の日射しのみ。
 そうだった。あの日、暗いだけの私の人生に、信じがたいような光が注ぎ込んだ。

 そして光の洪水の中で、何かが終わったの。
 背にすさまじい衝撃を感じ、私はその場に倒れ込んだ。



 驚愕した目のまま崩れ落ちていく女。
 そのさまを、黙って見つめている。この佐山市十郎、すべてを見届けようと思う。

 早い時期から気づいていたのだ。お殿様の「ご改革」の名の下に起きた藩政の混乱が、一部の若者の暴走に過ぎないことを。
 それでも良いと思っていた。そこに手を貸すことで、硬直化したこの国に一陣の風を巻き起こせると思ったのだ。
 だから認めざるを得ない。私自身も破滅に向かってひた走ってしまった一人である。

 実際に権力を手にしたお殿様の狂態を見るにつけ、状況は変わった。
 誰がお殿様の本当の友達なんだ? 媚びへつらい、機嫌を取る者か。正気を失ったお殿様を抑えようとすればするほど、おれを含めた一部の藩士は次第に遠ざけられていった。

 主君派は内部崩壊した。遠ざけられた者同士で何度も話し合った。はっきりしていたのは、これ以上阿波に混乱を招いてはならないということだった。
 だが事態の収束を本気で願った時には、すでに遅かったのだ。頼るべき老臣は残っておらず、迷い子のようになった主君を本来の道に戻せる者は誰一人としていなかった。

 追放刑に処せられた稲田九郎兵衛にも協力してもらい、私たちは幕閣に動いてもらうことにした。もはやそれより他に、手段はなかった。

 当然ながら、老中、松平武元からは、直ちに騒擾を収めよと命じられた。
 すぐに国家老、林建部の逼塞が決まった。阿波の国に嵐のように吹き荒れた夢は、ここについえることとなったのである。

 この女に、暴走した徳島藩の罪をあがなうほどの価値があるわけではない。ただその処分については全員で意見の一致を見た。主君派はずっと彼女を見つめ、彼女を中心に回ってきた。そして困窮にあえぐ民百姓の怨念は、徳島藩主その人ではなく、彼を突き動かした一人の悪女に向かっていた。この結末を迎えねば、誰もが納得できないのだ。

 乾き切った山道に、血が沁み込んでいく。倒れたお楽の唇はまだ動いていた。
 下役がもう一度刀を振り上げたのを手で制し、私は彼女の元へ歩み寄って身をかがめた。女は、はっはっと小さく短い呼吸を繰り返しながら、涙を流している。

 奥御殿に閉じ込められていた彼女は、庶民の貧しい暮らしなど知る由もなかったに違いない。
 だから言いたいだろう。
 自分はただ、愛しただけなのだと。命の限り、阿波の女になろうとしたのだと。

「……あなたはよそ者ではない」
 私はそっとお楽の身を抱き起した。
「この阿波に生き、阿波を愛した。まぎれもなく、阿波の女だ」

 お楽の目が私を捉える。
 思い出したはずだ。ここにもう一人、自分を愛した男がいたということを。
 お殿様とお楽とは光と闇。どれほど求め合っても、あざなわれることのない運命だった。
 私は闇にとどまり、闇に添い続けた。その最後を見届ける責任は、この私にあるだろう。

「市十郎どの……」
 かすれた声で、私の名が呼ばれた。
 お楽が震える手を伸ばし、その指先で私の頬をなでる。

 私は目を閉じる。
 階段下の、あの暗い部屋で息を殺しながら抱き合っていた頃の感触。あれが破滅に向かう夢の始まりだったのかもしれない。

「あなたが……とどめを……」
 嵐のように巻き上がる感情を押しとどめ、私はお楽の顔を見つめてうなずいた。

「しかと、承ってござる」
 お楽が目を閉じた。ほつれた髪が山の風を受け、はかなげに揺れている。私は脇差を抜き放つと、その腹に当てた。

 柄を握り直し、一気に突き刺した。
 お楽の身は一瞬、小さな衝撃に貫かれたようだったが、やがてぐったりと動かなくなった。

 体の奥底から突き上げる、激しいうねり。私は顔をゆがめ、お楽を力の限り抱きしめた。

 うおおおお、と獣のような声が口から洩れた。
 慟哭がいつまでも山にこだましている。

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