第47話 つぶしたい危険
文字数 2,092文字
だけどあの人、西の丸御殿に閉じこもって生活しているはずよ? 以前、座席衆に命を狙われ、伊賀組に毒を盛られたの。命はとりとめたものの、体を壊しちゃったのね。
今日姿を見せたということは、珍しく気分が良かったのかしら?
私は顎に手を当て、必死に記憶をたどった。あんな病人でも、数少ない正統な血筋の男子だから、それなりの存在感を保ってる。お殿様との会話の中でも、無視できない人物として何度かその名が出てきたことがあるわ。
人気のない東屋に移動してきてから、建部は小声で述べた。
「内匠頭様ご本人は、一度座席衆に排除されて懲りたご経験がおありになるゆえ、とても野心を抱くようなお方ではない」
周囲を窺うように、建部は言葉を継ぐ。
「しかしあの通り、今度は栄吉様を担ぎ上げようとする動きがある。これが問題だ。おそらく向こうは、
順養子は武家の
「つまり、殿のお子ではなく、栄吉様をお跡目に、ってこと?」
私の中でどろどろした感情が沸き上がる。建部は不承不承といった感じでうなずいたわ。
「残念ながら、栄吉様をご養子に迎えるのは順当な話だ。何しろ内匠頭様の官位は
んまあ、何て理不尽な話なの! 私の産んだ子じゃないけど、お殿様の御子は江戸にちゃんといるのよ? それを廃嫡してあんな病人に家督を返せだなんて。
陽だまりの中、キャッキャッと声を上げる幼児と女中たちが遠くに見える。
たちまち、心が凍り付いていくような気がしたわ。
「……とっとと殺せ。あんなガキ」
私は刺すように言葉を吐いた。お殿様の廃位をうながす子供の存在なんて、許せるものじゃなかった。
「おいおい、お前さあ」
建部は苦笑して首を振った。
「自分ができなかったくせに、よく言うよな。人を送り込んで毒を盛るのだって、かなり大変だぜ? その辺はお前がよく知ってんだろうが」
私のことなんて、どうでもいいの。とにかく順養子の件は、座席衆にとってお殿様を引きずり下ろす格好の材料になりそうだわ。何とかしなくちゃ。
「あの人たち、殿を無理やり隠居させようとしかねないわね」
それなら事は急を要する、という気もするの。
建部もすぐにうなずいたわ。
「押込めのことだろ。おれだって警戒してる」
「押込め?」
「主君を狭い部屋に閉じ込め、何もできぬようにした上で、家来が隠居の手続きを進めてしまうというものだ。当人が暴れるなど抵抗の姿勢を見せようものなら、手足を縛ることさえ辞さぬらしい」
ぎょっとする私をよそに、建部はまだ続ける。
「別に珍しい話ではない。聞くところによると、多くの大名家、旗本家で行われておるらしいぞ」
建部が言うには、闇の中で行われる手続きは、なかなか表沙汰にはならないんですって。暗殺よりはまし、と考える人が多いんですって。
だけど私にしてみれば、ふざけるなと言いたいところだった。
「ちょっと、あんた」
私は建部の袖をぐいっと引いた。
「よく平気でそんなことが言えるわね。もしお殿様がそんな目に遭ったら、私、絶対に許さないんだから!」
「許すも何も」
建部は私の手を振り払ってまた苦笑した。
「座席衆とてそれほどの強行に及ぶのは難しいだろう。今のところ、山田家老はまだ逼塞しておるゆえ、加勢もできぬわけだし」
私ははっとした。賀島上総らは、山田織部の謹慎を解こうとしてた。お殿様に対する優越性を担保したいんじゃないかしら。そうよ、先ほどの重臣たちの態度からすると、建部が言うよりも事態は切迫してる気がする。つぶしたい危険がいっぱいだわ。
んもうっと、私は文字通り地団駄を踏んでやったわ。
「もうっ。もうっ。あんたや佐山がしっかりしてないから、こういうことになるんでしょ? これじゃ、全然あいつらに勝てないじゃない」
建部を中心とした主君派はまだまだ弱小。ちっとも人数が増えないのよね。建部らの人望のなさが原因よ。
私は噛みつくような勢いで命じてやったわ。
「次のお国入りの時には、何としても殿の御身を守りなさいよね。あんな子供のことより、織部の対処の方が先決だわ」
「おいおい、また簡単に言ってくれるよな」
建部は空を振り仰いで笑ったわ。
「そりゃ、山田家老を排除する方法でもあれば簡単だ。しかし決め手がない。自宅で謹慎中の人間を、さらに厳しく罰するのは難しいぜ?」
確かにその通り。だけど私も引き下がるわけにはいかなかった。
「何とかしなさいよ。織部に弱点はないの?」
「弱点、ねえ……」
建部はうなり声を発し、あごをさすった。
「お子ができぬことかな」
「子供がいないの、あの人」
私は驚いた。山田織部はいくつなんだろう。まだ老人じゃないけど、そう若くもない。