不思議な若者
文字数 2,987文字
「ずいぶん機嫌がいいな」
「あの子といると、なんだか楽しいの。あの歳にしては珍しいぐらいに素直で……好きだわ、ああいう子」
「君は少年趣味だったか」
「そういう意味じゃないの。
あの子といると、自分がずっと忘れていたことを思い出す気がする。
それに不思議なぐらい……親しい感じを覚えるの」
ジュピターが少し考えるようにする。
「君は初めて私のことを見た時に、仲間かもしれないと思ったと言っていたな……そういうことか?」
「あなたの時とは少し違うけど……そうかも」
「他には手がかりは?」
「ないわ。あの子も自分が変異種だなんて意識に出してないし。
でも、あなただってそうだったでしょ。あなたの反応を引き出すのにすごく苦労したのよ」
「ふむ いずれ研修の終わりまでは面倒を見なければならんのだろう。時間はあるさ」
「そう……教育局から回されてきたファイル、転送したから見て」
ジュピターは受けとったファイルを端末の画面で開き、ページをめくった。
「『申し送り事項……准尉は全般に優れた能力を発揮するも、やや情緒不安定な面あり。的確な指導が望まれる』――なんだこれは」
「んー 機構の官僚制に合わせるのが苦手ってことね」
しばらくしてジュピターがつぶやく。
「おまけに、なんと偏った選択科目だ。これでどうやって卒業したんだ」
言葉とは裏腹に明らかに興味を惹かれたらしい様子に、リリアは彼の肩越しに画面をのぞきこんだ。
「ヨーロッパの近代文学、中世ヨーロッパの思想史、西洋と東洋の美術史……どれも士官学校の外で単位をとって移してるのね。
この子、あなたと話が合うんじゃない?」
「どうだかな 変わり者の問題児じゃなきゃいいが」
その言葉にリリアは思わず笑い出した。
「何がおかしい?」
「今のあなたのセリフ、タイガーが聞いたらなんて言うかと思って。彼にとってはあなたは『手間のかかる変わり者』だそうよ」
ジュピターが大尉に昇進し、オフィスは以前より広くなっている。一応、隅に小さな応接スペースも作った。
ジュピターは「そんなものはいらない」と言ったけれど、リリアは彼を説得して、お茶を出せるほどのテーブルと椅子を置いた。タイガーが仕事の合間にやって来ては、そこでお茶を飲んでいる。
時間に近くやって来た准尉を座らせて、ミントティーをもたせる。准尉がカップを持ち上げて匂いをかぎ、笑顔になる。
「個室の居心地はどう?」
「快適です。天窓のついた部屋なんて初めてで、夜空を見ながら寝ようとしたけど、うれしくてなかなか寝つけませんでした」
「よかった、そんなに気に入ってもらえて。
あのね 成績表を見たけれど、ずいぶん変わった選択科目をとってるでしょ。
士官学校の出身で、ベースの仕事と関係のない科目を外の大学でとって単位を移してるのなんて、初めて見たわ。学校では何か言われなかった?」
「指導教官に『規則によればそういうことも可能な建前だが、配属先に響くぞ』って言われました。『
「第一希望はどこだったの?」
「ニューイングランド州です。カリフォルニアの外ならどこでもよかったんだけど、ニューイングランドなら大陸の反対側だし、気候も文化もいろいろ違うだろうなと思って。
でも希望を出した後で無理だって言われて、それなら東の方ならどこでもいいって言ったら、『境界州に行ってみないか』って言われたんです。『あそこなら新しい訓練官をしきりに欲しがってるから、待遇がいい』って」
「そんないきさつがあったのね。
西洋の近代文学って、時代で言うとどのあたり?」
「17世紀から19世紀ということになってます」
「どんなことに興味があったの?」
「本当はドイツのロマン主義について知りたかったんですけど、そこまで専門的な講義が見つからなかったので」
「ロマン主義って?」
「18世紀後半から19世紀はじめ頃の思想と文学の流れです。
授業はベースの近くの州立大学でとったんだけど、定員30人のクラスに7人しかいなくて、入りたいって頼んだら喜んで入れてくれました。最後まで残ったのは3人しかいなかったけど」
「文学なんて学んでも、何の使い道もないってみんな思ってるのよね。
ロマン主義のどんなところに惹かれてるのか、少し話してくれない?」
その質問に准尉がちょっと考え込む。
よりによってベースの士官から、こんな質問をされるとは思ってもいなかっただろう。
でも彼は適当に答えてすませようとはしない。リリアの質問を真面目に受けとめ、何をどう説明すれば自分の伝えたいことを伝えられるかと考えている。
「僕が興味があったのは、ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテからヘルマン・ヘッセまでのドイツ・ロマン主義の流れなんです」
准尉は自分の携帯に1枚の画像を出した。
「これはヘッセの描いた絵です」
「色合いや雰囲気がセザンヌみたい。でも、これは油絵ではないのね?」
リリアの言葉に准尉の反応が明るくなる。普通のベース士官を相手にしているのではないと気づいたようだ。
「はい 水彩です。
それで、ゲーテはロマン主義の形成に最も大きな影響を与えた人で……」
それまでデスクの後ろで黙って聞いていたジュピターが立ち上がり、准尉の向かいの椅子に腰かけた。リリアは新しいお茶を入れて彼の前に置いた。
それを一口飲んでから、ジュピターが言った。
「ヘッセはロマン主義には入らないだろう? 時代が離れ過ぎている」
リリアはこみ上げる笑いをそっと抑えた。
ジュピターが部屋に積んでいる本の背表紙を、リリアはすべて記憶していた。彼がドイツ語の本をずいぶん読み込んでいて、その中にゲーテやヘッセといった名前があったのも覚えていた。
准尉がうれしそうに答える。
「はい ロマン主義は19世紀の前半までで、ヘッセの活動は20世紀の前半なので、時間軸ではギャップがあります。
でも僕、ヘッセを読み始めたころから、彼の内面にあるものがとてもロマン主義的だという気がして……ヘッセは英語圏では小説家としてしか知られていないですけど、彼の詩を読んでいると、とくにそれを強く感じるんです。
そしたらある時、20世紀後半のアメリカの学者の論文に『ヘッセはロマン主義の流れを継いで、その要素を最も広いスペクトラムにわたり表現した作家である』と書いてあるのを見つけて――」
「その『ヘッセの表現しているロマン主義的要素』というのは、具体的にはどんなことを指すんだ?」
「ヘッセの書くいたものは読んでますか?」
「『シッダールタ』と『
私が興味があるのはロマン主義じゃなくて、ドイツ観念論なんだ。とくにカントからヘーゲルまでの流れだが、思想の背景をつかむために、ゲーテやシラーの作品で手に入ったものは読んだ」
それまでベースの士官にわかりそうな表現を探して言葉を選んでいた准尉は、自分の考えを気兼ねなしに話し始め、ジュピターもそれに応じた。
生き生きと会話をする2人を見ながら、リリアは思った。
この若者が変異種の「仲間」であってもなくても、かまわない。彼とジュピターはお互いに出会うべきだ。
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