声
文字数 3,344文字
額から汗がしたたり、口の中は血の味がした。
レフェリーが勝者を宣言し、グローブをはめた自分の手をつかんであげさせる。
(どこだ?)
レフェリーの手をふり切り、ロープから身を乗り出してあたりを目で探す。
(声はどこから来た?)
競技場を埋める騒がしい人間たちの間を抜けて、遠くの出口に向っていく少女の後ろ姿をとらえた。目で追う彼女は扉の前で立ち止まり、一度だけこちらをふり向いた。
距離がありすぎて顔立ちもよくはわからない、だがそれが「彼女」だと思った。
州立大と士官学校対抗のボクシングの競技試合。最終ラウンドで激しく打たれて倒れ込んだ。レフェリーのカウントを受けながら立ち上がろうと床の上でもがく自分の頭の中に、その声は他のすべてを押しのけて響いた。
<立てるわ>
ふらつく頭を持ち上げる。
<――私 あなたが誰か知ってる――私たちは独りじゃない>
その言葉に込められた意味にはっとする。言いようのない思いに胸をつかまれながら、力をふり絞って立ち上がった。
気力をとり戻して接戦に持ち込み、ぎりぎりのところで相手をノックダウンした。
だが……あの少女は行ってしまった……
目を覚ましたユリウスはシーツをはいで起きあがり、目覚ましのアラームが鳴る前にそれを止めた。
またあの時の夢。もう4年も前の出来事だ。
彼女は確かに突然変異種の仲間だった。自分の頭にはっきりと響いた声は、テレパシー以外の何ものでもなかった。
だが少女はそのまま競技場の出口から姿を消してしまい、観戦していたクラスメートに手当たりしだい訊ねても手がかりはなかった。
彼女は変種で、そして自分が変種の仲間だと知っていた。だからこそ、テレパシーで話しかけるなどというリスクを冒した。それなのにあの後、二度と自分の前に姿を現さなかったのは、おそらく多くの変種たちと同じように、その短い生を終えたのに違いない。
彼女はもう死んでしまって、いない。
ある意味ではそう信じたかった。彼女が機構の手に捕らわれ、科学局の収容施設に送られた可能性など考えたくはなかった……。
夢の余韻をぬぐい落とし、自分の置かれた境遇の皮肉さにユリウスは自嘲した。
自分は「普通の人間」たちの間に紛れて、その統治機構の行政士官になり、これから昇進コースの階段を駆け上がろうと――機会が許すなら、その幹部の地位に手を伸ばそうというのだ。
機構という体制と自分という異物の、それはゲームだ。足を踏み外せば、自分もいつ自由を失い、あるいは突然の死を迎えるかも知れない。それなら賭けは大きい方がいい。
自分は成長の遅れた変種だった。そうユリウスは考えた。変種としての形質の発現が、科学局に認められているよりもずっと遅かったのだ。
これまで知られている事実によれば、テレパシーやテレキネシスといった突然変異による特殊能力は、8歳から10歳頃までに発現した。そのため機構の管理下にあるすべての地区で、12歳になった子供たちは心理検査を受ける。
心理検査で疑いのある反応が出れば、さらに厳しい負荷検査にかけられ、変種と確定した場合には「保護」と称して
それは変異種を恐れる一般の人間からの差別や暴力から保護するためと、表立っては説明された。そしてその特殊能力を利用しようと狙う反乱軍やテロ組織から、子供たちを守るためと。
しかし表で語られない理由は、人の心を読んだり物体を心の力で動かすといった、一般の人間に超えようのない能力を持つ変異種の存在は、人々の不安を煽り、社会の安定を脅かす。
統治機構は行政と経済を統括する官僚組織だ。大戦の破壊と疲弊から社会を立ち直らせることと、今も各地に割拠する反乱勢力をとり除くことに腐心していた。社会と人心の安定を何よりも望む機構にとって、変種の存在はとり除かれなければならない不安定要因だった。
ある将官の言葉を借りれば、「他人の心を読むことのできる変異種など、人間の社会に存在してはならない」のだ。
事実、施設に送られた者が戻ってきた例はない。
ユリウスは12歳で心理検査をパスし、南ヨーロッパ・ベースの高級士官だった父親の手で士官学校附属に入れられた。
13歳のある日、自分の「あってはならない」能力に気づいた。
学校ではほとんどの科目でトップの成績を収めていたが、ひとつだけ苦手なクラスがあった。教官は年配の軍士官で、話がしばしば妙に飛躍して、何でも筋を追って考えたいユリウスは苦労した。
その日も、いったいこの教官は何を言おうとしているのか理解しようと、意識を集中していた。
突然どこからともなく、ひとつの「考え」が自分の頭に映った。そしてわずかな間をおいて、それと同じ内容が言葉として教官の口から発せられた。
ユリウスは一瞬とまどった。教官の考えを追おうと夢中になるあまり、次に彼が何を言うかを、自分の心が想像したのだろうと思った。
ただ自分の中に映ったその「思考」は、どうにも自分のものとは異質で、明らかに「他人のもの」だという感覚を残した。
再び意識を集中すると、同じことが起きた。ひとまとまりの「考え」が自分の頭に映り、それとまったく同じことが教官の口から語られる。
自分が先取りするものと、教官の口から出てくる内容は完全に一致していた。
時々「考え」が止まり、独り言のようなものが現れる。
(このガキどもは、理詰めで説明されることしか理解できんのだな まったく)
(だが、わざわざ手とり足とり教えてなどやるものか)
自分はただ想像しているのではなく、実際に教官の心を読んでいるのではないか――そう気づき、ユリウスは背筋をこわばらせた。
そんなはずはない。
心理検査も問題もなくパスした。何も不安要素のない普通の人間だという証明があったから、士官学校にも入れたのだ。
だが……もし今、自分が経験したのが、他人の心を読んだり、声を使わずに思考を伝える「テレパシー」の一種だとしたら……?
自分の中の「それ以上知りたくはない」という感情を、「知らなければならない」という理性と意志の力が押さえ込んだ。
今、経験したことが何を意味するのか、知らなければならない。それは自分の将来を左右する。いや、場合によっては一切の自由を奪われることにつながる。
誰にも気づかれないように注意しながら、自分の能力を試した。そして確認した。
望めば、自分には他人の心が読める。自分は機構の科学局が定義する「人間の変異種」なのだ。
その考えはユリウスの中に沈み込んだ。
ただ能力の発現が士官学校という機構の組織の内側に入った後だったのは、幸運だった。いや……幸運だったのか?
暗澹とした気持ちが湧きあがるのを押さえ、自分を落ち着かせる。
行政士官の息子として育ち、組織としての機構の官僚的な体質をユリウスはすでに理解していた。
その体質のゆえに、一度その壁の内側に入ってしまえば、再び心理検査にかけられることはないはずだ。まわりに疑いを抱かせるようなことさえしなければ。
能力を隠し、注意して行動すれば、自分の秘密は誰にも知られない。残された人生を機構の壁の内側で、普通の人間の間に紛れて生きていくことができる。
そう覚悟した13歳の時から、生き延びていくための対価として「本当の自分」を隠すことを受け入れた。
自分を知る人々から離れるために、15歳でヨーロッパを出てアメリカの士官学校に進んだ。
誰にも心を開かず、深い部分で自分だけを頼りに生きる。それ以外にはない――そう思っていた。
そんな時にあの少女の声を聞いたのだ。
だがあの時から4年。今となっては、あれは偶然がもたらした一時の幻のようなものだった——ユリウスはそう自分に考えさせた。
シャワーを浴びて着替える。このキャデットブルーの制服を着るのもあと2週間。その後には正式に行政士官の明るいブルーグレーの制服をまとうことになる。
鏡に映る自分の顔。
真珠色の髪、緑がかかった金色の瞳。4代前まで遡っても、父方にも母方にもたどれない髪と目の色……。
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