共感型
文字数 3,235文字
考えてみればリリア自身の能力も、ジュピターと出会ってテレパシーで会話するようになってから、少しずつ強くなっていた。
テレパシーでのコミュニケーションだけでなく、まわりの人間の感情に対する感度も増していた。今はおそらく50メートルくらいの範囲で、自分への指向性のある感情に気づく。
そういった変化になんとなく気がついてはいたが、あまり深くは考えないでいた。それが単純にいいことだとは思えなかったからだ。
能力が目覚めた13歳の時、父方の親戚の家に住んでいた。その人たちから疎ましさや苛立ちの感情を向けられているのに気づき、自分のどこが悪いのだろう、どんないけないことをしたのだろうとずいぶん悩んだ。
どうしても理由がわからなくて、相手の心を探ってみたいと思ったこともあった。でも自分を安心させるためだけに他人の心を探るのは、してはいけないことだと思った。
やがて否定的な感情が自分に向けられた時には、それを意識の片隅においやって耐えることを覚えた。
親戚の家を出て士官学校に入り、ベースで働き始めてから、まわりから自分に向けられる感情は、好意や信頼など、ほとんどが温かなものだ。
でも時々、それ以外のものにも出くわす。羨望、嫉妬、ライバル意識。
恋愛や性的な興味の対象として見られ、相手がこちらのことを探ろうとしているのに気づくこともある。
そういったことは相手と顔を会わせている間が多いが、少し離れた場所から向けられているのに気づくこともあった。「自分が心の中で考えていることは誰にもわからない」、普通の人たちは誰もがそう思っている。
だからよけいジュピターの理性的な心は、リリアにとって安心できるものだった。
あからさまに攻撃性を向けてくる相手には容赦ないけれど、それは例外だ。
同僚の中にはジュピターを冷淡だと感じる人たちもいたが、それも違う。リリアが彼の心に触れて感じるのは、気分や感情に支配されない安定した明晰さなのだ。
そしてタイガーのさっぱりとして陽気な性格と、強面の後ろに隠されている驚くほどの思慮深さと面倒見のよさも、リリアにとっては安心できる拠り所になっていた。
信頼する二人の仲間に心を開いて過ごすうちに、おそらく自分の能力は刺激され、変化はじわじわと内側から圧力をかけていたのだろう。そしてその圧力が知覚の境界を押し広げ始めた。
最初は少し不安だったが、タイガーに言われて気づいた。この能力は自分たちの安全を守るために生かせる。
否定的な感情は感知しやすい。はっきりとした敵意や害意ならもっと気づきやすいはず。
そうして意識的にまわりの人間の感情に注意を向け始めると、自分をとりまく「
自分の意識の外殻を広げると、その中に含まれる人間の数が増えて、さらに雑音が増す。
時には雑音に圧倒されて、気がつくと自分の意識が制御を外れて広がってしまっていたこともあった。
「どうした 気分でも悪いのか」
ジュピターの声に、はっと引き戻される。オフィスで端末に向かっている最中だった。
「ううん ちょっと他ごとを考えてたみたい」
意識の中心点をつかみ、意志の力でそれを自分の中に引き戻して、目の前の仕事に集中し直す。
目の前のことに集中しながらでも、背景の雑音はそこにある。
距離を広げるごとに増える雑音の量を考えると、自分の神経に耐えられる限界があるような気がした。能力自体に限界があるというよりも、どれだけの量の雑音に自分の心が耐えられるかが限界なのだろうと思った。
ふいに泥色の津波が押し寄せてきた。考える間もなく頭からそれをかぶり、押し流される。たくさんの感情が慌ただしく散らばり、叫ぶような思考の断片が飛び交う。自分とは関係ないはずの誰かの痛み、不安、緊張……
誰かの手がそっと自分のひじをつかみ、意識が引き戻される。しっかりとした両手がリリアの頬を包み、金色の瞳が自分を見つめていた。
二人で中央オフィスビルの廊下を歩いていた。その途中でたぶん、足を止めてしまったのだろう。体が緊張でこわばっていた。
歩いていくスタッフたちが興味を示して、ちらりとこちらを見る。
通りがかったブライス中尉が声をかけた。
「とり込み中のとこ邪魔するけど、君ら、医務局のインフラのプロジェクト中だろう? 情報、見といた方がいいぜ」
タブレットをとり出す。「西部戦線から多数の負傷者を搬送。第一陣が先ほど到着。外科病棟の病室占有率は21%に達する見込み」。
自分を呑み込んだのは、ベースに搬送されてきたたくさんの負傷兵や、対応にあたる医療スタッフの感情の波だったのか……
「いったん戻ろう」
ジュピターはリリアを促してオフィスに戻り、椅子を引いて座らせた。彼はラヴェンダーのお茶を入れ、リリアの手にもたせた。
手のひらに感じるカップの温かさにほっとする。
「ごめんなさい……」
「自分のせいじゃないことで謝らなくていい。
この間から君が何かをやっているのには気づいていた。
私は君みたいに何もかも感じるタイプじゃないが、観察することぐらいはできる。
君の能力だな? それが強まっているのか?」
ジュピターには内緒にするつもりだったので、リリアは少し迷った。
でも気づかれてしまったのだから話そうと決め、自分が通過している能力の変化について説明する。
話を聞いてジュピターはしばらく考えていた。
「それは君にとって精神的な負担ではないのか?」
「……」
「君が自分のためのやりたいことなら止めはしない。
だがもし私や虎のためにそんな負担を背負おうとしているのなら、しなくていい。あいつも同じことを言うだろう」
「……まったく負担じゃないって言えば嘘だけど……でも、私はそうしたいの。
タイガーが言ってたみたいに、能力はもしもの時にきっと役に立つ。もしもの時なんて来ないことを願ってるけど、でも伸ばせる能力は今のうちに伸ばしておきたい」
ジュピターがリリアを見つめる。
「何か手伝えることがあれば……と言いたいところだが、君の能力はきわめて君に固有のもののようだ。
正直、君がどんなふうに他人の感情を自分の中に入れて、それに耐えることができるのか、私には想像もつかない。
それは人間というものに対しておそろしく共感力の強い、君の性格に依存する能力なんだろう。
私も君もテレパスだが、君は共感型とでもいえるタイプなんだな。
テレパスとしての能力では私は明らかに君の足下に及ばない。だが、君一人であまり無茶なことはしないでくれ」
ジュピターは本気でリリアのことを気づかっていた。大げさな感情の表現はないけれど、必ず彼はそこにいてくれる。
リリアは微笑み返した。
「大丈夫。じきに慣れると思うけど、もしまた私が流されてしまいそうになってたら、捕まえて」
ジュピターが苦笑を浮かべる。
「君は穏やかなようで、けっこう頑固だからな」
仕事の後に自分の個室に落ち着き、リリアは再び自分の心の境界を広げた。
50メートル……100メートル……200メートル……無数の感情とそれに伴う思考の断片、そしてその間を埋める雑音。
時々、何か注意を引くものがあり、軽く意識を向けただけでその感情に伴う思考が見えてしまうこともある。その中身には注意を向けず、魚を水に返すように手放して、もう一度意識を広げ直す。
(私は他の人たちの考えてることなんて知りたくないの。ただまわりの人たちの感情の中に、私と大切な人たちの安全に関わるようなものがないかだけを知りたいの)
そして自分にはそれが可能だと思った。
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