疑い
文字数 3,618文字
先に来ていた彼女が笑顔で声をかける。
「お茶、飲みますか? カフェテリアに置いてあるティーバッグじゃなくて、ちょっといいモロッカンミントのお茶があるんです」
思いがけない言葉にややとまどいながら、うなずいた。
シラトリは身軽に立ってお湯をとりに行き、カップを2つ手に戻ってきた。とり出した小さな袋の口を切るとと、青くあざやかな香りが立つ。
差し出されたカップに口をつける。
アメリカに来てから、ベースのカフェテリアでとる食事をうまいと思ったことはない。今はもう味を気にするのも止めて、基本的には栄養価だけで食べている。
だがこれは、うまい。ミント本来の香りが鼻を抜け、舌とのどに染み込む。
ユリウスがお茶を味わうのを見ながら、シラトリがうれしそうに微笑む。
「それで、まず最初の目標は第1ディヴィジョン入りという理解でいいですか」
「そうだ」
「第1は希望者が多くて競走が激しいですよね」
「昇進コースで競走のない所などないだろう」
「そうですね。とりあえず第5の内務で実績を積んで、早く昇進するのはもちろんですけど。あと、できるところで第1の人たちと知り合いになっておきたいですね。転属には推薦がものを言いますから」
その翌日シラトリは、第5ディヴィジョンの中級士官の仕事を手伝う話を持ってきた。
「まだ正式の開始前だぞ。そんなことができるのか?」
「だめだという規則はないです。ただ内容は完全な雑務ですし、実積にもなりません。
でも少尉は休暇をとるつもりはないんでしょ? それなら仕事始めまでの間に手伝うだけでも、いろいろ見えることもあると思いますし、コネクションも作れます」
なるほど、とユリウスは思った。自分はまっすぐな線しか見ていない。しかし自分より年下のこの女性副官は、線と線の間をつないで道をつけることができる。
そう考えたが口には出さなかった。しかし彼女はまるでそれが聞こえたように、にこりとした。
シラトリが持ってきたのは、ベースの環境整備に関するプロジェクトの下仕事だった。数字など細かなチェックは彼女に任せる。ユリウスは計画書のフローチャートを見渡し、幾つかの問題や改善の可能な点を見つけた。そのストレートな指摘を、シラトリが穏やかにまとめ直して担当の士官に伝えた。
正式に仕事が始まった。この日から、下級ではあるが行政士官の1人として数えられ、中央ビル群の中に小さなオフィスも与えられる。
第5ディヴィジョンは内務を統括し、ベース内の環境と資源管理、交通と通信、警備、人事などの機能を含む。すべての新任の行政士官はここからスタートし、ベースの維持や運営に関わる。そのまま第5に残り、警備や人事などの局付きになる者もいるが、能力が認められれば他のディヴィジョンに転属する機会がある。
他の新任たちは競って雑務にとり組む。その間に、先の手伝いですでに二人の仕事を知っている中級士官たちは、早々とプロジェクトの分担に二人を指名してきた。
そして本格的に仕事が始まると、ユリウスはシラトリの不思議な交渉能力を目の当たりにした。そのやり方は他の副官たちとまったく違っていた。
実際、彼女の対人能力そのものが、単なるコミュニケーション技術を超えていた。それが仕事の交渉であっても、優しく穏やかに会話を運びながら、相手を自分のペースに乗せてしまう。ユリウスならやりそうな理詰めの議論や、筋を押し通すようなことは決してなかった。
まるで相手の気持ちを目で見て、どこで押してどこで引けばいいのかを正確に知っているようだった。
シラトリは、いつの間にかオフィスに持ち込んだ湯沸かしでお茶を入れていた。声をかけようと思った瞬間、手を止めてこちらを向く。
まただ。こちらが彼女のことを考えた途端、それに気づくかのようだ。
「シラトリ 私は、君を女性という属性ではなく、副官としての能力で選んだんだ。古い慣習で女性に押しつけられていたような雑用はしなくていい。お茶ぐらい自分でも入れられる」
「ええ でもこういうことも好きなんです。それに少尉が能力を発揮できるよう環境を整えるのも、私の役割ですし」
そう言って彼女は楽しそうに気配りを続けた。
ユリウスは自分が変種であることを知り、そしてベースの昇進コースを駆け上るというゴールを設定して以来、すべての人間関係を目的のために割り切ってきた。
いずれ、自分のすべてを打ち明けることのできる相手などいない。誰も自分の深いところにあるものを理解することなどできない。ならば効率のいいやり方ですべてを割り切るだけだ。
計算されたギブ・アンド・テークを越えて、他人から好かれたいと思ったことはなかった。
士官学校で唯一、ユリウスの冷ややかなあしらいを無視して友だち扱いしてくる同級がいた。そいつも卒業後は別のベースに移っていった。
シラトリの柔らかな視線に向かい合っていると、そういった、すべて自分の中で整理し切ったはずの人間関係についての思いが、ふいに意識に上ってくることがあった。
そしてまた彼女が自分に向ける真っすぐな視線、対等な友人に対するような態度は快いと思った。
やがてユリウスは、あることが気になり始めた。
彼女の察しとタイミングのよさは完璧すぎる。
仕事の区切りがついたと考えた途端、あるいはのどが渇いたと思ったそのタイミングで、彼女はお茶をすすめる。
食事の時間だが仕事から目を離したくないと考えると、「カフェテリアから何かテイクアウトしてきましょうか」と訊ねる。
資料であれ何であれ、何かが欲しいと思った時には、彼女はそれを準備して待っていた。逆にユリウスが考え事に没頭していて邪魔されたくない時には、1時間でも2時間でも静かに自分の仕事をしていた。
昼食時の何気ない会話の中で、彼女がやや個人的な質問をしたことがあった。ユリウスがその質問に答えるのを心の中でいとった瞬間、答えを待たずに彼女は話題を変えた。
こういったことは、単に彼女の観察力と察しのよさなのか?
ある日の朝、ユリウスは起き上がり、体がだるいと感じた。オフィスに入りデスクについた頃には、それは熱っぽさに変っていた。めったにないことだが風邪でもひいたのか。
(医務局で解熱剤でももらって来るか)
そう考えた時、シラトリが前にお茶を置いた。
「どうぞ」
言われるままに、茶色い液体に口をつける。
今まで飲んだことのない変わった香りのハーブティーだ。口の中に広がる甘苦く、少し古びたような香りと味。
それを飲み干してしばらくすると、体が汗ばみ、やがて熱っぽさが引いて楽になる。
「何だ これは?」
「風邪の初期に飲む薬草茶です」
「なぜ そんなものを」
「風邪ぎみなのが顔に出てました。そんな時は薬なんて飲む前に、まず体を温めるお茶を飲んで汗をかくのが一番です」
それだけ言うと、自分のデスクに戻る。
端末を操作する彼女の横顔を見ながら、ユリウスは考えた。
彼女の能力や仕事ぶりについては高く評価している。考えられる限り、自分にとって理想の副官だと言ってもよかった。
ただ、それを口に出して伝えたことはない。しかし自分がそんなことを感じた時にはいつも、彼女は顔を上げてこちらを向き、笑顔を見せた。まるでこちらの思うことに気づいているように。
そういったことが、仕事始めからの短い期間の間に繰り返された。一つ一つは観察力や察しの良さで説明できないことはない。しかし彼女の行動や反応のすべてを足し合わせると、それでは納得がいかない。
そこには明らかなパターンがあった。何か、通常のレベルを超えた心の働き……。
(まるで こちらの心を読んででもいるような……)
そう考え、ユリウスは椅子にもたれ込んだ。
(彼女がこちらの心を読んでいる……一番シンプルな説明はそれだ。
しかし、そんなことはあり得ない。彼女が変種だなどということは。
……いや、あり得ないわけがあるか? 現に自分はここにいる。
しかし実際に心を読んでいると仮定すると、彼女のふるまいは変だ。まるでそれをこちらに気づかせようとしている)
そこまで考え、ちらりと彼女の方を見る。彼女は表情を変えず仕事を続けている。
(……仮に彼女が変種だとすれば、自分と同じく発現の遅かったタイプだ。そしてそれを隠すことで生き延びてきたはず。
だがそれならなぜ、わざわざこちらの疑いを招くような行動をとる?
わざと疑問を抱かせた上で、自分の反応を探ろうとしているのか?
しばらく思案に暮れた後、ユリウスは決めた。
これまであえて使うことのなかった、他人の心を読む能力。残りの人生でそれを使うことはないかもしれないと思い始めていた、変種の特殊能力。
だが今、何が彼女の笑顔の背後にあるのか、その手がかりを得るために、少しだけその心を探ってみる……。
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