戻らない覚悟

文字数 2,655文字

 エリンが半ばぼう然と端末の画面を見つめ、確かめるように文字を読み返す。読み返された言葉はリリアにも届き、ナイフのように胸に刺さった。
(マリアはすでに州外に移送されている——それもSCI——科学局の指示で——?)
 最悪の可能性をまったく考えていなかったわけではない。でも、あえて意識の前面に出さないようにしていた。マリアがまだ州内のどこか、自分たちの手の届くところにいて、何とかできることを願っていた。
 だが事態は予想外に早く、難しい方向に動いていた。
 テレパシーを中継していた共感型テレパスたちの感情がぶれ、つながりが揺らぐ。慌てて呼びかけ、つながりを支えて安定させた。
 しかしリリア自身も動揺していた。
 情報を受けとめたジュピターが固く唇を結ぶ。彼は素早く判断を下した。
「警備局がケースを『処理済み』に入れたということは、マリアはすでにその手から完全に離れている。データベースからはこれ以上の情報は引き出せない」
 ジュピターはタイガーに引き上げを指示し、タイガーがすぐに仲間たちを連れて動き出す。
 ゲートを出る際に、レイニアは守衛の意識を覚醒ぎりぎりの状態にまで戻した。目を覚ました守衛たちが「自分たちは居眠りをしていた」と考えるよう暗示を加えて。
<——リリアさん> 
 ウェイのテレパシーが飛んできた。
<スティーヴが個室を出てそっちに行きました 落ち着かせようとしたんだけど、もう止められなくて……>
 スティーヴがオフィスに飛び込んできた。
「マリアは……」
「虎が戻ったら行動のオプションを再検討して、どうするべきか案を練る」
「それまで待ってろっていうの?」
「……ノースアトランティック州内で機構中央が管理する施設について、追加の情報を集める必要がある。状況を細部まで把握し、計画を立ててからでなければ行動は起こせない」
 ジュピターが低く抑えた声で言う。
「……」
「冷静になれ スティーヴ。マリアは救い出す。しかしそのために、このベースにいる仲間全員を危険にさらすような無謀な動きはできない。それはお前もわかるはずだ」
 しばらく立ち尽くしていたスティーヴは、目を伏せて「わかった」と一言だけつぶやいた。
 後を追ってオフィスに入ってきたウェイに「個室に戻る。独りになりたい」と声をかけて出て行った。
 感情を押し殺したスティーヴの態度にリリアは不安を覚えた。しかし無理に話しかけて、苦しむ彼の心の中に土足で入り込むようなことはしたくなかった。
 今、自分たちには彼を慰めるすべすらない。 
 ウェイも同じ気持ちだっただろう。ドアの前に立ち尽くし、出て行くスティーヴの背中を悲しげに見ていた。


 スティーヴはナタリーから学んだやり方で、自分の心を他のテレパスたちから遮へいしていた。意志の力で感情を切り離して押さえ込み、思考の言語化も止めて、ただ歩いた。
 制服のポケットを探り、鍵がまだそこに入っているのを確かめる。リリアに借りてもらった車はそのままだ。
 夜の駐車場から車を出す。ベースのゲートを出る時に守衛に話しかけられたが、心理処理を加えて記憶を混乱させておいた。
 「人の記憶を操作するなんて嫌だ」と、ジュピターと議論していたのは自分だ。だが今はもう、そんなことに構っていられない。
 スティーヴはすでに覚悟を決めていた。
 高速道路に出て、北に向かって車を走らせる。
 ベースから離れ、仲間たちのネットワークから外れ、さらに走り続ける。
 リリアも、ウェイでさえも自分を追跡できない距離まで来てから、心の遮へいを外した。
 目的地はDCのさらに北。
 「SCIの指示によりケースはNABに移管」……。
 SCIは科学局。NABは、境界州と北で接するノースアトランティック州ベース。
 そのベースには馴染みがあった。
 仲間を探すために出かけた外回りの研修で、最後に行った場所――そしてマリアと出会った。
 マリアと一緒に過ごした記憶がとめどなく心にあふれ、記憶の中の彼女の優しい笑顔に胸がぎゅっと絞られる。
 彼女と出会う前、ベースから少し離れた場所にある林らしい場所を散策したことがあった。背の高い木々の間を歩き回るうちに迷ってしまい、うろうろするうちに、大きな建造物に出くわした。目隠しのような木立に囲まれ、さらに高い壁に覆われた灰色の建物。入り口にはゲートがあり、兵器庫か何かだろうと思った。
 いや……今思えば、その建物が視野に入った時、言い様のない不快さで感覚がざわつき、それ以上近づくべきではない気がして引き返したのだ。
 後から思いついて地図を調べてみたが、建物は表示されていなかった。いろいろなことを思い出し、あれが変異種を扱う「施設」の一つだという確信がスティーヴの中にはあった。
 そして……機構は「保護された変異種は、彼らだけの安全な場所で余生を過ごせる」と公に説明している。つまり「保護」された者は二度と自由になることはできない。
 だからマリアを連れて逃げるしかない。
 今となっては普通のやり方でマリアを助け出せないことは、ジュピターもわかっている。すぐに動き出さないのは、他州のベースが管轄し、かつ機構の中央が管理する施設からマリアを助け出す行動は、あまりにリスクが大きいからだ。
 失敗すれば作戦に関わった全員の身に危険が及ぶし、それがきっかけで境界州ベースに集まっている仲間たちの存在がばれてしまうかもしれない。だからできる限り情報を集めて、状況を分析して、慎重に計画を練らざるを得ない。
 それはわかってるんだ。
 でもマリアは僕やみんなを守るために、仲間たちを危険に巻き込まないように、自分1人が犠牲になることを選んだ。
 彼女を見捨てることなんてできない。どんなことをしてでも助け出す。
 ベースでの生活にはもう戻ることはできないだろうけれど、それでもいい。
 2人でどこか機構の手の届かないところに逃げる。両親が僕を守るために豊かな都市での生活を捨てて、機構の目の行き届かない復興途上地区に身を隠したように。
 自分には独力でもマリアを助け出す力がある。タイガー相手に磨いた強力なテレキネシスも、ジュピターやナタリーから学んだ分析型の心理処理能力もある。
 彼女を救い出し、そして2人で姿を消せば、みんなを巻き込んで危険にさらすこともない。
 ジュピターとリリアならその意図を察してくれるだろう。あの2人、それにタイガーとナタリーがいれば、このまま仲間たちを守ってくれる。
 
 暗い空の下、木立の向こうに灰色の壁が見えてきた。

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登場人物紹介

ユリウス・A・アキレウス
アメリカ境界州ベースのエリート行政士官。思考力に優れ、意志も強く有能だが、まわりからは「堅物」「仕事中毒(ワーカホリック)」と呼ばれている。
あだ名 「ジュピター」(士官学校でのオペレーションネームから)

リリア・マリ・シラトリ
アキレウスの副官でコミュニケーションの専門家。親切で面倒見がよく、人間関係に興味のないアキレウスを完璧に補佐する。料理好き。

ワン・タイフ

境界州ベースの陸軍士官。快活で決断力があり、喧嘩も強い。荒くれ者の兵士たちからも信頼が厚い。

あだ名 「虎」(部下の兵士たちが命名)

ナタリー・キャライス
境界州ベースのシヴィリアンスタッフで、すご腕の外科医。頭が切れ、仕事でも私生活でもあらゆることを合理的に割り切る。目的のためには手段はあまり選ばない。

スティーヴ・レイヴン
境界州ベースに配属されてきた見習い訓練官。明るく純真で、時々つっ走ることがある。大切な夢を持っている。絵を描くのが趣味。

リウ・ウェイラン
ニューイングランド州ベースで隊附勤務中の士官学校生。優しく穏やかで、ちょっと押しが弱い。絵を描くのが趣味だが料理も得意。

ダニエル・ロジェ・フォワ
ニューイングランド州ベースの陸軍士官。生真面目で理想主義。弱い者を守る気持ちが強い。

アンドレイ・ニコルスキー

ニューイングランド州ベースの管制官。人好きで寂しがり。趣味は木工で、隙があれば家具が作りたい。

エリン・ユトレヒト

ニューイングランド州ベース技術局のシヴィリアン・スタッフ。機織りやその他、多彩な趣味があって、人間関係より趣味が大事。

マリア・シュリーマン

ノースアトランティック州のシヴィリアン・スタッフ。優しく繊細で、少し引っ込み思案。

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