メッセージ
文字数 3,156文字
太陽の光で温まったカーペットの上に座っている。そばには年とった2匹のパグが寝そべっていた。
父は大学で仕事をしていたが、週の何日かは家で仕事をしていた。仕事の合間によく、動物や、鳥や、昆虫についての話を聞かせてくれた。
自然の中の多様な生き物がどんなふうに生きているかを聞くことは、スティーヴの心を生命の不思議さと畏敬で満たした。
その父は朝食の後、仕事場にしている自分の部屋にいた。
母は画材を使って自分の手で絵を描くという、今どき珍しい古い趣味を持っていた。探し回って手に入れたパステルをで、スティーヴに絵を描くことを教えてくれた。
その母はキッチンにいる。
手を伸ばしてもが届かない。
膝の上には大きな画板を抱えていて、斜め前にはパステルの箱があり、左右にはパグたちが寝転がっていて、身動きがとれない。
そうだ、発見したことを試してみよう。
床のパステルを見つめ、それが自分の方に戻ってくるのを思い浮かべる。自分の心がパステルに触れ、そっと圧力をかける。
パステルははゆっくりと手の届くところまで転がってきた。
それをとり上げて、ふと思いつく。
箱の中からマジェンタのパステルをとり出し、それが宙に浮かぶのを思い描く。手の上のパステルがゆらゆらと動き、やがて目の高さに浮いた。
それからオレンジ、レモンイエロー、リーフグリーン、セルリアンブルー、インディゴ、ヴァイオレット。
2匹のパグのうち「スピノザ」と名づけられた方が体を起こし、鼻息を立てて、宙に浮いたパステルの匂いをかいだ。それから「なーんだ」というように、また寝そべる。
開け放されていたドアから母が入ってきた。手にしたトレーからココアの甘い匂い。トレーをサイドテーブルの上に置いて声をかける。
「何をしてるの スティーヴ?」
「パステルが僕の言うことをきくんだよ」
母はそばに膝まずき、宙に浮かんだ何本ものパステルを見た。
「面白い。これ、このまま浮いているの?」
「ええと なにか歌ってみて」
若い母は優しい笑顔で、自分の好きなブランデングルク協奏曲の明るくテンポの早い一説をハミングした。
虹色のパステルがゆらゆらと揺れ、やがてハミングに合わせてリズミカルに上下した。
母は目を輝かせ、パステルのダンスを見つめた。
廊下を通りがかった父に、母が声をかける。
「あなた 見て」
「うん?」
眼鏡をかけた、ひげ面の父親が入って来る。眼鏡の後ろの穏やかな、深い知性を感じさせる目。
父親は宙を舞うパステルをしばらく黙って見ていたが、やがて言った。
「これは手品か何かかね?」
「違うの。これは私が見つけてきた普通のパステルですもの。スティーヴの言うことをきくんですって」
父は押し黙った。
しばらくして、思い切ったように訊いた。
「スティーヴ パステル以外の物も……お前の言うことをきくのかい?」
「うん けさ 目がさめたら、できるようになってた」
サイドテーブルの上のクッキーが皿から跳ねて、スティーヴの手に飛び込む。クッキーを3等分してパグたちと食べるスティーヴを見ながら、父はしばらく無言で立ち尽くしていた。
やがてソファに座り込み、難しい表情で何かを考えている。邪魔してはいけない雰囲気を察した母親が、黙ってそれを見ている。
やがて父の心がまとまったことが、その表情に表れた。
「フローレンス ここに座って」
母を隣に座らせ、その手を父は握った。
「私の言うことをしっかり聞いて欲しい。
私はこれから少し出かけてくるが、その間、スティーヴを外へ出してはいけない。私が帰ってくるまで、家の中にいさせるんだ。いいね?
誰にも、友だちにも会わせてはいけない。
それからこのことは誰にも話してはいけない。いいか、誰にもだ。
スティーヴの命がかかっていることなんだ」
突然の夫の言葉に母は驚いた顔をしたが、すぐにいつもの信頼を込めた表情でうなずいた。
父は慌ただしく身支度をすると出ていった。
その日の夕方、父は帰って来た。そして長い間、母と話をしていた。母の顔に浮かぶ驚き、不安。
そして二人の間に一つの決意が生まれ、お互いの顔を見つめあう。
父はスティーヴを呼び、抱え上げてひざにのせた。
「スティーヴ 心を読むってわかるかな。お父さんが心の中で、何を考えているかを知ろうとしてごらん」
……もしかしたらそれは、ちょっと前から時々、起きていたあのことだろうか。父や母の気持ちや考えている言葉なんかが、ふっと自分の中に入ってくる。
父の顔を見ながらその「心」に意識を向けると、単語が聞こえた。
「『とつぜんへんい』ってなあに?」
答えるように、父の心にイメージが浮かぶ。
たくさんの白い羊。その中に一匹、空色の子羊がいる。お父さんもお母さんも白いのに、この子羊は違う色。
「青い羊?」
父は慈しむようにスティーヴの頭に手を置いた。
「お父さんの話すことは、今は全部はわからないかもしれない。でもこれから先、それがお前の中にしみ込むまで、繰り返すよ。
だからお父さんの心を感じながら お父さんの言うことをよく覚えるんだ。
お前はね、『新しい種類』なんだ。お父さんやお母さんとは違う、新しい種類の人間なんだよ。
お前が心の力で物を動かしたり、人の心を読んだりするのは、その新しい人間としての力なんだ。
お前たちはね、人間という種が、新しいものに変わっていくための試みなんだ……」
父の心の中に森の樹々が広がる。その中を幾千もの緑の葉をゆらして風がわたり、上には高く青い空が広がる。それから日が落ちて、真っ暗な空を数え切れない星々が埋める。遥かな昔から自然の中を流れてきた一つの「力」——。
それは地球の歴史を通し、進化というルールに沿った流れを通して、たくさんの植物を、動物を生み、そして人間という種を生んだ。膨大な情報が、言葉でないイメージとしてスティーヴの心の中に伝わってくる。
そしてその「力」が、今また新しい生き物を人間の中から生みだそうとしている——と。
「お前たちには、普通の人間にはない能力がある。それで普通の人間たちは、お前たちを恐れている。自分たちはとって代わられてしまうと思っているんだ。
それでお前たちを捕えて、この世界から消してしまおうとしている。そうすれば、その力の流れを変えることができると思って。
それは本当は愚かなことだ。でも普通の人間たちはそのことをわかろうとはしない。
お前はだから、その力を普通の人間たちの前では使ってはいけない。
いいか、このことをしっかり覚えなさい。
お前がそんな力を持っていること、お前が新しい種類だということを、まわりの人間に知られてはいけない」
父の言葉にこもる真剣さは、その言葉の大切さをスティーヴの心に刻んだ。
「お前は賢く生き延びるんだ。お前やお前の仲間たちが生き抜けるかどうかに、人間が新しいものになれるかどうかがかかっている。
生き続けるんだよ スティーヴ——。
お前たちはただの突然変異ではない。お前たちの存在には意味があるのだ。そのことをいつも覚えておきなさい——」
静かな声で語られる動物学者の言葉が、その感情が、彼の心を満たすイメージが、スティーヴの記憶を通して自分の心にしみ込むのをジュピターは感じた。
「生き延びろ、スティーヴ。
そうすればきっとお前の仲間にも会える。
お前たちは偶然の産物なんかじゃない。数は少なくとも、仲間は生まれ続ける。
その仲間と一緒に生きて、そして新しい種を確かなものに育てるんだよ——」
ジュピターは目を閉じて動物学者が語るのを聞き続けた。
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