蜘蛛の網
文字数 3,247文字
もっともジュピターにとって重要だったのは、ただ容姿が魅力的である以上に、メスのように切れ味のいい知性を彼女が備えているということだった。「人間関係には感情を交えない」という言葉通りに、彼女は2人の関係に感情をまとわりつかせなかった。
グラスを2つ手に戻り、1つを差し出す。
冷たいスパークリングウォーターでのどをうるおすと、グラスをサイドテーブルに置いて、彼女は再びベッドに転がった。
「坊やのこと、心配じゃない?」
「何を心配しなければならない?」
「あの子は半分、共感型よね。
共感型は、至近距離から向けられる他人の強い感情と、自分の感情を区別できない。結婚みたいな選択にあんな飛び込み方ができるのも、だからでしょ。
あの子は自分で自分が何をやってるかわかってると思う? それとも本人が幸せならそれでいいのかしら」
「君がそんなことを考えていると、スティーヴに伝わるんじゃないか。
意識的な訓練を始めてから、共感型たちの能力は伸び続けている。リリアとウェイはすでに1キロ半径はカバーできる。スティーヴもそれに近づいているだろう」
「共感型テレパスが反応するのは、自分に指向性のある他人の感情に対してだけよ。そしてその2人みたいに能力が強ければ、その感情をたどって思考の形を見ることはできるけど。
でも自分に向けられる感情という手がかりがなければ、思考だけを単独で捉えることはできない。だから、最初から思考に感情的な要素を一切交えなければ気づかれない」
「君がそんな言い方をするからには、試してみたんだな?」
ナタリーがチェシャー猫のような表情を浮かべる。
「思考と感情を完全に切り離しておくことが、共感型に対する思考のバリアとして働くのか」
「そう もっとも微塵の感情も交えずに相手について考えたり分析ができるのは、私やあなたぐらいでしょうけど。
坊やはちょっと違う形で遮へい能力を発達させられると思ってたけど、今はそんなこと完全に興味なくしてるわね」
「能力に関して言えば、彼はあらゆる点で規格外だな。仲間たちの能力を分析し、共通項に基づいてカテゴリを作っても、彼だけはそこからはみ出す」
「それにしても 変種同士の婚姻なんて思ってもみなかったけど、将来的に変種同士の子供が産まれる可能性もあるのよね」
「スティーヴの父親は、変種は偶発的な突然変異ではなく、人類の進化の方向性であり、その数は増えていくべきものだと考えていた。
変異種が種として生き延びるというなら、同じ形質を持った子孫を残していくのは必要なことだろうな」
「変異の原因が本当に遺伝子にあるなら、生まれる子どもはかなりの確率で変種になるわね。科学局はいまだにその変異の座がどの染色体にあるのかも突き止められないでいるけど。
でも生まれた子どもが変種だったとしら後が面倒ね。心理検査をどうくぐり抜けさせるか。それともベースを出て復興途上地区にでも紛れ込むのかしら、スティーヴの両親がやったみたいに」
「……必要になればどんな手でも打つし、そのための準備はする。
スティーヴの存在は生きることへの希望というメッセージを運ぶ、我々にとって希望の象徴だ。
彼は自分の未来に疑いを持っていない。だからパートナーになる女性を見つけて結婚するという選択にも迷いがなかった。
変種であっても人間らしく生きられる、そして未来に手を伸ばせると、行動を通して仲間たちに示し続けている」
「あなたも相変わらず夢見る理想主義者ね」
「私や君が、思考にがんじがらめになって手を伸ばせないようなことに、彼はためらわずに飛び込んでいく。うらやましいとは思わないか?」
「別に。ただ坊やが突っ走り過ぎて、トラブルが起きた時に後始末をするのは、あなたや虎の中佐よね」
「それが我々の役割ならば、それでいい。
……君がこのあいだ考えていた、共感型たちのネットワークをレーダー代わりにするという考えはまとまったのか」
「ええ 全員を共感型のネットワークで包むことね。
ネットワークが機能するには感情的なつながりが必要だから、親しい者同士をまずグループにする。そしてその中に必ず少なくとも1人、共感型が入るように調整する。
そしてこのグループを少しずつオーバーラップさせて、全体がつながったネットワークにする。ベース全体を包むにはまだ全然、数が足りないけれど、今から始めるのは悪い考えじゃないと思うわ」
それから付け加えた。
「私はグループには入らないけど。感情的なタイプにまとわりつかれるのはごめんだし、自分で自分の身は守れるから」
ナタリーとジュピターが練った計画を、タイガーとリリアを交えて検討する。
ネットワークが機能するためには感情のつながりが必要なので、最初は仲間を親しい者同士のグループに分け、そしてそこに必ず共感型が1人入るようにする。
共感型はグループの仲間と感情的な絆を築くことで、仲間たちを自分の感情の中にとり込む。共感することで相手と同一化をするといってもいい。
その同一化が十分強ければ、仲間に対して外部の誰かが疑いを覚えたり、恐れや悪意など否定的な感情を持った時、共感型はそれを感知できる。能力が十分に伸びれば、半径1キロの範囲で害意などの強い感情は感知できる。
実際に問題が発生したら、近くにいる分析型がその対象を特定して分析し、リリアを通してジュピターに知らせ指示を仰ぐ。そして仲間を守るために必要なら、記憶の操作や消去を行う。現時点で記憶の消去ができるのはジュピターとナタリーだけなので、その作業は2人のどちらかが行うことになる。
仲間の人数が増えていけば、この共感型による感情のネットワークはベース全体をおおうことができるし、1人の仲間を複数の共感型がカバーして、網を密にすることも可能だろう。
「まったく お前ら頭でっかちどもは何を考えだすかわからんな。俺はテレパスじゃないからよくわからんが、これは確かに機能するんだな?」
「仕組みとしては機能するはずだ。現時点での効率や、調整の必要な点は実際にやってみなければわからないが。
ただそのために共感型たちに負担を強いることになる。各自が精神のバランスを崩さない限度内で、最大限に能力を伸ばしてもらわなければならない」
「もともと他人の感情を感じることと、親しい仲間に共感するのは私たちの性質だもの。それを意識的に伸ばすことで仲間を守れるなら、全然負担じゃないわ」
リリアが言った。
「自分の手で仲間を守れることはうれしいのよ。他のみんなもきっとそう思うんじゃないかしら」
ナタリーは「面倒な仲間づき合いはしたくない」と言いながら、定期的に外のベースから手術の依頼を受けて出かけていき、少しずつ仲間を見つけてきた。
純粋に分析的な彼女が1人の仲間を見つけるために、いったいどれほどの数の人間をスキャンし、心の構造を分析し、記憶を調べているのか。その作業にかかる精神的な労力は非常なものだったはずだが、彼女は自分の負担については一切口にしなかった。
ただ新しい仲間とのコンタクト役として、再びスティーヴを送り出すことは難しかった。加えて、新婚の彼をマリアから引き離すことにはリリアとタイガーが反対した。
そのためナタリーが出かける際に、仲間のうちでコミュニケーション能力のある者が休みをとって彼女の秘書の名目で同行し、仲間を見つけた場合の接触と説得を行うことになった。
ベースで働く神経外科医は数が少なく、ましてやナタリーの腕は近隣のベースの医務局に知られている。彼女が客員外科医として訪れるのと引き換えに、それぞれのベースの医務局は彼女の希望をかなえるため可能な限りのことをした。
そうやってナタリーはいつの間にか、複数のベースに自由に出入りする許可を手にしていた。
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