夢見る
文字数 2,154文字
いつもの彼の反応を縁どっていた、かすかな「皮肉さ」のようなものがなくなっている。
その「皮肉さ」は、普通の人間たちの占める社会の中で、自分を隠して生きていくしかない自分自身の無力さに対して向けられるものだということを、リリアは理解していた。
ベースの行政士官というこの社会のエリート、その中でもトップのペースで昇進コースを駆け上がりながら、それを「単なるゲーム」と言っていた彼。
その彼の目が、今までとは違う所を見ている。どこかずっと遠く、もっと高い場所……
その週の土曜日の午後、ジュピターは「終えてしまいたい作業があるから」とオフィスに戻って行った。「週末の残業にはつきあわなくていい」と言われているので、リリアは少し考えてから、居住区に隣接する海岸に向かった。
スティーヴは、休みの日にはジュピターと一緒にいることが多かったけれど、でなければ居住区の林か海岸を散策している。
林を抜けて海岸に出ると、気持ちのいい海風が吹いている。
遠くにスティーヴの姿が見えた。ジーンズに長袖のシャツを腕まくりして、ゆっくり砂浜を歩いている。
ふと何かを見つけ、波ぎわに寄ってしゃがみ込み、海の水に指を入れる。そのしぐさがまるで子供のようで、リリアは思わず微笑んだ。
彼がこちらをふり向く。こんなに遠くからでも、リリアが彼に向ける感情をキャッチできる。
こちらに歩いてくる彼の、海風に吹かれる柔らかな金髪、くったくのない笑顔。
「……ジュピターが なんだか少し変わった感じがするの。それはきっと、あなたのせいなんでしょ?」
「僕のっていうより、僕の父さんかな」
「あなたのお父さん?」
「うん。
僕の記憶を通して、父さんの言葉を聞いてもらったんだ。それを聞いているうちに、ジュピターの心の手触りが変化するのを感じた。
それで考えたんだけど、父さんは僕一人のためだけに新しい種として生きることの意味を教えたんじゃなくて、僕を通して、みんなに語りかけようとしたと思うんだ。
だから リリアにも見て欲しい」
スティーヴは濡れた片手をジーンズで拭くと、さし出した。リリアはそっと両手でスティーヴの手を握った。
招かれるままに、開かれたスティーヴの心に触れる。彼が自分の記憶をたどり始め、リリアの中に、まるで目の前に見るような生き生きとした光景が広がった。
能力が目覚めた朝のこと。
父と母のやりとり、そして決断。それまで築いてきた生活のすべてを手放して、息子を守り育てることを選んだ。
自分の妻に話しかける父親の、落ち着いた表情。その視線は穏やかで、それでいて透徹した知性を感じさせる。それを受けとめる若い母親の信頼に満ちた鳶色の瞳。
スティーヴが変異種だとわかってからもその愛情は変わらず、むしろ息子への思いは強くなった。二人はスティーヴのために自分たちの人生から大きな犠牲を払い、その犠牲を希望をもって受け入れた。
絵と音楽を好んだ才能あふれる若い母親。黄褐色[オリーヴ]の肌と黒い髪。愛情と信頼、それに少女のような無邪気な感性をもって夫と息子を支えた。
復興の進んだ都市での心地よい生活を捨てて、復興途上地区に移り住んだ。生活はずいぶん不便になったけれど、それを母親は好奇心と創意工夫とユーモアをもって受けとめた。
父親は息子がいずれ、くぐり抜けなければならない心理検査について考え、計画を立て、それを静かに実行した。
リリアはスティーヴの父親と母親の姿を見続けた。
苦労が多かったはずの毎日の生活の中で、両親はそれをスティーヴに感じさせなかった。自分たちがまだ見ぬ未来へと目を向けることで、未来に向かって目を上げ続けることを教えた。
「生きるんだよ スティーヴ。そうすればきっとお前の仲間たちにも会える。
仲間たちと一緒に生きて、次の世代を、そしてその次の世代を育てるんだ——」
リリアは目を閉じて、その温かく力強い声に聴き入った。
「新しい世代」を……子供たちを……スティーヴのように愛されて育つ子供たちを——
自分の中にあって、それから手放してしまった夢。
その手放した夢への憧れが、少しずつ胸にあふれる。リリアは両手を胸に当て、それをしばらく感じていた。
目を開け、スティーヴを見つめた。たまらず、彼を思い切り抱きしめる。
「ありがとう」
「うん」
二人で砂の上に座って、波の音を聞きながら海を眺める。
「ねえ スティーヴ……あなたの目と髪の色って お父さんともお母さんとも違う?」
「うん 二人とも、家族に金髪も青い目もいないっていってたよ。リリアも?」
「……ええ」
「ジュピターもそうみたいだよ。僕が、かっこいい髪の色だねって言ったら、『一族には誰もこんな色の者はいない』って言ってた」
「え……」
「それって、僕らの変異の一部なのかもしれない。
もっともタイガーは普通に東洋系の目と髪の色だから、みんながそうってわけじゃないみたいだけど。
普通の人間に比べてみると、僕らはあちこちがちょっと変だけど、でも一緒にいればお互いに普通なんだ。
僕らには、普通の人間と同じ生き方はできないかもしれない。でも同じくらいは幸せになれる。ね?」
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