森の精
文字数 3,050文字
全員がシヴィリアン・スタッフのベージュの制服を着ているので、きっと同じオフィスの同僚だろう。
楽しそうにおしゃべりをする女性たちの中で、端に座っている1人に目が行く。
女性というようりは少女のような、ちょっとおぼつかない存在感。細面の顔だちに、柔かにウェーヴのかかった髪。
会話には加わらず、ただまわりの女の子たちの話を聞いている。そして時おり内気そうな笑顔を見せる。でもその表情はなんだかぎこちない。
スティーヴは少女を見つめた。
笑顔の中にもどこか憂いを含んでいるようで、心から笑っているのとは違う。
「彼女」だ……そう思った。
やがて彼女はそっと椅子を引いて立ち上がり、同僚たちに声をかけて先にカフェテリアを出ていった。
あの後ろ姿、そして床に着ききらないような足どり。
追いかけようかどうか迷い、迷っているうちにタイミングを失う。スティーヴは頭をかいた。
いつもなら誰にだって話しかけられるのに、何でこんなに気後れしてるのかな。
夕方、個室に戻り、ふーっと息をついてベッドに転がる。天井を見上げ、この個室には天窓がないことを思い出し、ちょっと残念に思いながらうつぶせになって枕に顔を埋めた。
あの女の子のことが、ずっと気になるんだ。
行動パターンからすれば、仲間である可能性はある。
だから迷っていないで口実を作って話しかけ、握手をしてみればいい。仲間かどうかはそれでわかる。
でも……それが何だかできない。
彼女のことを知りたいのに、近寄れない。それはどうしてだろうと考える。
もし急いで無理に近寄ったら、彼女が逃げていってしまうという不安。
それから「もし仲間じゃなかったら……」という不安。
自分は彼女に何か特別なものを感じている……強く心を惹かれている。
でももし彼女が普通の人間だったら?
彼女に近寄るべきじゃないだろう。そのまま互いの人生が触れ合わないようにして、そっと立ち去るのがいい。
でも、それが耐えられないことのように感じる。
彼女に惹かれる気持ちと、彼女に近づくことの結果を不安に思う気持ちの間を、とりとめもなく行き来する。
こんなに迷うのは自分らしくない……ここでの時間は限られているのに……。
落ち着かない気分でその週を過ごし、新しい仲間たちと会っても上の空で、「何か心配事でもあるの?」と訊かれ、慌てて首を振る。
週末、他に何かすることもできず、林に出かけた。
話しかけてしまえば、握手ぐらいできる。なのにその勇気が出ない。
すでに友達のように感じているカエデの木を見上げ、その太くしっかりとした体を登って、5メートルほどの高さの場所に座る。
ここなら緑の葉に包まれて、自分の姿は見えない。
木はスティーヴに微笑んでいるようだった。若いほ乳類が、小さなことでぐるぐる悩んでいると。
時間が過ぎ、今日はもう来ないだろうかと思い始めた頃、彼女がやってきた。前と同じように木の根元に座り、本をとり出して開く。
迷うようにページを行き来して、やがてある箇所を選んだ。
甘い声が詩を読み始める。あの夢の時と同じに詩が胸に染み込んで、物語のようにイメージが広がり、そして彼女の言葉が自分の中で形になる。
Wenn du die kleine Hand mir gibst,
Die so viel Ungesagtes sagt,
Hab ich dich jemals dann gefragt,
Ob du mich liebst?
Ich will ja nicht, dass du mich liebst,
Will nur, dass ich dich nahe weiß
Und dass du manchmal stumm
und leis Die Hand mir gibst.
言葉にされないあまりにたくさんのことを語る小さな手を
あなたが私に差し出してくれた時
愛してくれますかと
私はあなたに訊ねましたね
私のことを愛してとは望みません
ただあなたがそばにいることを知り
そして時おり、あなたが黙って私に
そっと手を差し伸べてくれるだけでいいのです
彼女の読む言葉は、まるで自分に向けられているような気がした。
……でも今さら木の上から話しかけたりするのも間が悪い……。
しばらくの沈黙。それから彼女が静かに本を閉じて立ち上がり、去っていこうとする。
スティーヴは慌てて枝の上に立ち上がり、その拍子に足を滑らせた。落ちる瞬間、彼女の前でテレキネシスは使わないと決め、何もできないまま背中から落ちた。
地面に転がったままのスティーヴのところに彼女が駆け寄ってきた。
心配そうにのぞき込む。
「……大丈夫ですか?」
間近で見る瞳は
スティーヴは体を起こそうとし、それを助けようと彼女が腕に手を添えた。スティーヴはその手に指を触れた。
ずっと想像していた通り、透き通って繊細な感触。うっかりするとそのまま森の中に溶けてしまいそうな。
ヘッセの愛した
それからあることにスティーヴは打たれた。
同じもの 彼女は僕と同じものだ——
興奮とうれしさが胸の奥からあふれてくる。
「……ごめん 君がヘッセを読むのを聞いていたんだ」
少女が驚きと困惑で頬を赤らめる。
それから読んでいたのがヘッセの詩だとスティーヴが知っていたことに、再び驚く。
「ドイツ語はそんなにはできないけど、ヘッセの詩は英訳で読んで覚えてるから……」
彼女は自分の手にスティーヴの指が触れたままなのに気づいていない。彼女の考えや感情が伝わってくる。
(……彼のことをもっと知りたい……でも だめ 近寄っちゃだめなの——私は誰にも近寄っちゃだめ)
彼女が自分を切り離そうとするのを感じ、思わずスティーヴは言った。
「どうして? 自分が他の人間と違ってるって思うから?」
彼女がびっくりして体を固くする。でも自分で止めることができる前に、彼女の心は答えていた。
(私はここにいてはいけないものだから 他の人たちと親しくなってしまうと いつか巻き込んで 迷惑をかけてしまうかもしれないから)
スティーヴはそっと自分の指を彼女の手から離した。
胸がどきどきするのを感じながら、笑顔を向ける。
彼女は人間に姿を見つけられた森の精みたいに、今にも逃げてしまいそうだった。でもあえて手を離す。彼女に逃げ出す自由をあげるために。
「大丈夫 君が心配するような迷惑は、僕にはかからない。
隣に座ってくれる? 話したいことがあるんだ」
戸惑う表情を見せていた彼女が、おずおずスティーヴの隣に座る。
「僕はスティーヴ 君の名前を訊いてもいい?」
「……マリア」
ささやかれるその名前が胸に響く。
「驚かないで」
そう言うと、スティーヴはテレパシーで話しかけ始めた。
はやる気持ちを抑え、彼女の反応を確かめながら、ゆっくりと言葉をつないで仲間たちのことを説明する。
それを話し終わり、スティーヴ自身の記憶を見せるために彼女の手を求めた。彼女はそっと手を差し出した。
記憶を見せ終った後、スティーヴは少し照れながら彼女の顔を見た。
彼女の視線が初めてはっきり自分と合う。
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