心の輪郭
文字数 3,106文字
「何か手伝わなくていいか」
「大丈夫よ。キッチンは広くないし、シンプルな料理ばかりだから一人でやった方が早いと思うの」
二人をワインと一緒にリビングに落ち着かせて、料理の続きを始める。
しばらく話し声が聞こえていたが、やがて静かになる。こんな時はだいたいテレパシーで話をしている。「能力は使わなければ伸びない」というタイガーに、ジュピターが相手をしていた。
テレパシーでコンタクトができるのは一度に一人。ジュピターとタイガーがテレパシーでやりとりしていても、それはリリアには聞こえない。
サラダの野菜を洗って水を切りながら、テレパシーでの二人の会話が自分に関係しているようだと気づいた。タイガーがいつもの彼らしい配慮で、リリアのことを何か思っているのを感じる。
ちょっと気になりはしたが、努めて注意を払わないようにした。だいたい、二人が自分について話しているところに割り込むわけにもいかない。
もどかしい気持ちを抑えて手作業に集中する。
突然、何かが広がる感覚があった。
自分の心の外側の殻の透過性が増して、心の輪郭が広がる。そしてその中にジュピターとタイガーの存在が感じられた。
ふいに二人の会話が聞こえる。
<……思うんだが、リリアはお前に気があるんじゃないか?>
<何を言い出すかと思えば……そういう余計な干渉はやめてくれ>
<お前、何も気づかないのか?>
<気づく気づかない以前に、仕事に恋愛関係を持ち込むつもりはない。込み入った人間関係に割くような時間はないし、関係が壊れた時に副官を失うなどごめんだ>
<最初からうまくいかなかった時のことを考えてるのかよ>
<彼女はもちろん、いい友人だ。副官としても高く評価している。今の早さで昇進を続けていくには、彼女の存在は不可欠だと言ってもいい。
だからなおさら、感情の絡む不安定な要素を持ち込みたくないんだ>
タイガーが肩をすくめるのがわかり、二人の話が途切れる。
サラダボウルを台の上に置いて、リリアは自分を落ち着かせた。
会話の内容に感情的な反応を覚えてもいたが、それ以上に、思いもかけずに二人のテレパシーでの会話を聞いてしまったことに動転していた。
二人は自分が聞いていたことには気づいていないようだ。
その後はどうにか料理を作り終わり、食事中は当たりさわりのない会話をしてやり過ごした。
幸い「今日は食事の後にジムでスパーリングをする」と、二人は早めに帰っていった。
一人になり、バルコニーに並べている鉢からボラージュの青い花をつんでカップに落とし、お湯を注いだ。温かいカップを手にソファにもたれ、ふうっと息をつく。
言われてしまえば、ジュピターの考えは理解できた。
リリアが副官として欠かせない存在になるほど、彼は関係に不安定な要素を持ち込みたくない。
ある意味、そうさせてしまったのは自分だ。そして今となってはどうにもならない。
お茶を飲みながら意志の力で気持ちを整理し、もう一つのことを考えた。
今まで、テレパシーでのコミュニケーションは1対1でしか可能でないと思っていた。二人の会話を聞けてしまったのは、どういうことだったのだろう。
あの時の感覚の変化を思い出す。
自分と他人を隔てる心の外殻の透過性が増して、心の輪郭が広がり、二人の存在を包むように感じた。それから自分の心と二人の心の間にコンタクトが開いて、会話が流れ込み始めた。
これは……自分の能力に何か変化が起きたのだろうか?
ある休みの日、ブランチの後にリリアはそれとなく話を持ち出した。
「私、自分の能力がちょっと変化してるように思うの。それで試してみたいんだけれど、少しの間、二人でテレパシーで会話していてくれない?」
二人はリリアの意図はかわからないまま、頼まれたようにた。
リリアはこれまで一人で練習した通り、自分の心の外殻を押し伸ばし、境界を広げて二人をその中に入れた。それから結び目を作るように三人の心をつなぐ。
<どう 私の言葉は聞こえる?>
<聞こえてるぞ>
<ちょっと待て いつもの1対1で話している時と違う。
リリアの声だけでなく、虎の返事も聞こえた。お前にも俺の言葉は聞こえるんだな?>
<おう>
<これは……三人の心がつながれて、テレパシーの
<そうだと思う>
リリアは二人をフィールドから
ジュピターは強い興味を示し、どうやってフィールドを作ったのかをリリアに説明させた。それからしばらく自分でも試してみたが、うまくいかない。
「リリアも一朝一夕で身についたわけじゃなかろうし、練習がいるんだろ」
「いや こういう形のテレパシーの使い方は、俺には無理だな。おそらく彼女のように、他の人間に対する許容性の高さが必要な気がする」
「あー そりゃ当たってるかもな。
何にしろ、これならリリアがいれば、テレパシーでも三人で話し合えるわけだ」
「そうね おしゃべり以外に、何の役に立つかわからないけれど……」
「いや どんな能力も無駄にはならん。
例えば俺たちのことが機構にばれて、ベースから逃げなきゃならない状況が起きる可能性も、まったくのゼロじゃない。そんな時にはこれは役立つだろう」
タイガーの言葉にリリアはどきりとした。タイガーは安心させるようにつけ加えた。
「そんなことにはならんとは思うが、まあ、いざという時のために、使える道具は多い方がいいってことだ」
その日の夜、リリアはバルコニーに出て、夜空を見ながら考えた。
私たちには、どうしてこんな能力が与えられているのだろう。他人の心に触れたり、読んだりする力なんて……そしてお互いの心に触れて、それをつなぐ力なんて……。
人間はみな、心に距離を持っている。距離は自分と他人の心の間にもあるし、社会に向ける自分の顔と、その後ろにある考えや感情との間にも距離がある。
テレパシーは、その心と心の距離をないものにできる。それを普通の人たちは恐れて、だからテレパスの存在を受け入れない。
でもテレパシーは心の距離を飛び越えて、互いを間近に見ることを可能にするものなのに。
そんなことを深く考える前に、リリアはジュピターとテレパシーで触れ合った。ためらいはなかったし、後戻りの選択もなかった。
リリアは彼に近づけるのがうれしかったし、彼は自分の心がリリアの目にさらされるのを厭わない強さと明晰さを持っていた。
目標を見つめてぶれない彼の強さと明晰さを、リリアはいつも憧れと敬意をもって見ていた。
そしてその明晰さで、彼はリリアとの関係に線を引いた。
その決断を受け入れるべきだとは思った。
……ジュピターが他人の感情を感じてしまうタイプでなくてよかった。もしそうだったら、関係はもっと早くに難しいものになっていたかもしれない。
受け入れよう、彼の引いた線を。そうすれば少なくとも、彼のそばにはずっといられるのだし……「欠かすことのできない副官」として。
それからタイガーの言葉を思い出す。「機構にばれて、ベースから逃げなきゃならない状況が起きる可能性もゼロじゃない」。
この三人の居場所と小さな幸せを、そんな形で失うことは考えたくもなかった。でもタイガーが言うように、そんなことが絶対にないとは言い切れない。自分たちの立っている足場は、幾つもの偶然と幸運の上に成り立っている。
それなら、その大切な居場所を守るために、何かあった時に自分にできることを少しでも増やそう。小さな傷つきなんて手放して、もっと強くなろう。そうリリアは決心した。
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