問い
文字数 3,213文字
仕事場はベースの周辺区域にある演習場や訓練場で、中央にあるジュピターのオフィスからは距離がある。それでも彼は報告をメールで済ませず、週に1度やって来た。
彼がミルクを入れた甘い紅茶を好むのを知ったリリアは、ジュピターの抗議を押し切ってオフィスに小さな冷蔵庫を入れ、目だたない位置に設置した。新鮮なミルクを常備するためだ。
報告に来て、ミルク入りの紅茶を出された准尉は、自分が歓迎されていることを理解した。そしてそのままジュピターと話をしていくようになった。
仕事についてはいつも「何もトラブルはなし」と言っていたが、タイガーや教育局のスタッフから聞いていた「新米の扱い」が気になり、リリアは研修の現場を見に行きたいと思った。
夕方近くに仕事の区切りがついたので、そのことをジュピターに伝えると、彼は自分も同行すると言った。
「ラウンジで君に絡んできた訓練官に出くわす可能性もあるだろう」
あの酔っ払い訓練官のことはともかく、ジュピターがいてくれれば、いろいろとスムーズなのは確かだ。
訓練場にジープで乗りつけ、前にいた7Dの兵士に案内してもらう。
初めて演習場に出向いた時には、タイガーとの喧嘩騒ぎを起こし評判になった。そのおかげで今は、7Dの兵士たちのかなりがジュピターのことを知っている。最近は2人がジムでスパーリングをしていると聞きつけ観戦に来るほどだ。
訓練場の入り口に着くと、解散した新兵たちが小銃を担いで出てくるところだった。少し遅かったようだ。
屋根のついた広い施設の中をのぞくと、数人の訓練官たちが輪になりミーティングをしていて、そこに准尉もいた。
訓練官はほとんどが7Dの兵士出身で、大柄で体格のよい者が多い。その訓練官たちの間に、ガゼルのようにすらりとした体つきの准尉が交じっている。
先輩の訓練官たちは准尉に話しかけ、手振りや身振りを交えてアドバイスを与えている。准尉は真面目な顔でうなずいている。誰かが冗談を飛ばしたようで、いっせいに笑いが起きた。
後ろから快活な声がした。
「あいつのことなら心配はいらんぞ」
「タイガー……じゃあ、こっそり見ててくれたのね?」
「「あいつは人に好かれる妙な才能がある。おまけに頼りなく見えるが、とんでもない運動能力もある。それで口うるさい軍曹どももあの通りってわけだ」
准尉は週に1度、午後の遅い時間に報告に来て、出されたお茶を飲みながらジュピターと話をしていく。時間管理にこだわりのあるジュピターも、この若者相手には甘い。
今のアメリカでは物事の価値はすべて、現実的な形で生活をよくするかどうかで計られる。その尺度では当然、価値など認められない古い文学や思想といった時代遅れの興味を分かち合って、2人の話は尽きなかった。
やがて准尉はジュピターがラテン語に堪能なことを知ると、古書店で手に入れて持っていたという古いラテン語の教科書を持参して文法の質問を始め、リリアを微笑ませた。
2人を見ながら思う。
この若者は、ただそこにいるだけで、リリアが忘れていた何かを思い出させてくれる。彼の存在は、ジュピターが必要としていながら、自分でも気づいていない何かを刺激する。
本当に重要なのは、きっと話す内容ですらないのだ。准尉と向かい合って時間を過ごすこと自体が、ジュピターに影響を与えている。
個室に戻って、いつものようにお茶と料理の本を手にソファに座る。リリアはふと、准尉の表情を思い出した。
すべての人の身構えを溶かしてしまう、あの笑顔。
彼は本当に仲間なのだろうか。
彼が変異種だとしたら、あんなに無防で屈託なしに誰とでも接することができるだろうか。
自分が他の人間と違う、この社会に居場所のない変異種であるという事実は、リリアの人生を制限していた。
万が一、変種だと知られるようなことがあったら、手にしているすべてを奪われてしまうという恐れは、いつも意識のどこかにある。
それは人生というものについてのリリアの感じ方に影を落としていたし、ジュピターにとってもそうだった。
普段から戦場での危険と直面しているタイガーは、ある程度、割り切っているように見えた。それでも「いざという時」のことは、彼の心にもいつもある。
そういった、背後から心を縛るような要素を、あの若者からは感じなかった。
いつものようにテーブルをはさんで自分と向かい合っている若者を、ジュピターは見ていた。
窓から入る午後の光が、彼の
准尉はふと、座ったまま背伸びをするようにして窓の外を見る。
「ここからも海が見えたらいいのに。見えそうで見えないですね」
「もっと上の階のオフィスに移るまで待つんだな」
「行政士官のオフィスって移動するんだ。どうなると上の階に移るんですか?」
「昇進だ」
「昇進かぁ……」
「君は興味ないんだろう。訓練官などという、大変なばかりで昇進の機会のほぼない仕事を選ぶぐらいだからな」
「組織の階段を上がること自体には興味はないです。
ベースで働きたいというのはあったんだけど。
行政士官は向いてないし、そもそも成績が追いつかないし。人を殺すのは嫌だから軍も向いてないし……で」
「なるほど それで残った選択か」
「そんな感じです」
准尉はうなずき、ふいに訊ねた。
「大尉は生きる意味って、考えたことありますか?」
ジュピターはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「哲学的な命題として考えたことはある……それも昔のことだが」
「昔って……今は考えてないんですか?」
「……一般的な人間の生きる意味自体は、存在するはずだと思う」
ジュピターは言葉を切って口を結んだ。
「だが 自分にとっての、この人生の意味というようなものがあるとは思っていない」
なぜ自分はこんなことを、この若者に話しているのか……。
「でも そんなに頑張って仕事をして昇進を目指すんだから、何か目標があるんでしょう?」
「君はもう少し思考の整理をする必要があるな。『目標』は単なるゴールであって『意味』や『理由』とは違う。
私が働くのは、できるかぎり高い所まで出世の階段を昇ってみるという、単なるゴールのためだけだ。ゲームさ。それは生きる意味といったようなものじゃない」
准尉は考え込む表情をした。
「人生の夢なんかも、ないですか?」
「士官学校に入ってから、夢を持つことは止めた」
「どうしてですか?」
ジュピターは腕組みをして准尉の顔を見ていたが、やがて言った。
「君には——『生きる理由』があるのか?」
「あります」
若い准尉は明るい表情で答えた。
准尉の視線があまりにまっすぐで、ジュピターは続く質問をすることができなかった。
准尉が帰っていった後、ジュピターは思った。
あの若者の中には、自分が求めているものがある。それは何なのか。
もし彼が変種だとしたら? 自分たちと同じように、自分が誰であるかを隠して、普通の人間の中に紛れて生きていかなければならない者だったとしたら——それでも彼は「自分には生きる理由がある」と言うのだろうか。
「リリア」
「ええ?」
「まだ あの若者が仲間だと思うか?」
「……人間としてあの子が好きだから、仲間でもどっちでもいいと考えてしまうこともあるけど……でも、近い者っていう感覚はずっとあるわ」
「どうやったら確かめられるのだろうな。
我々がお互いにはまっていたジレンマだ。
テレパシーで話しかければ、このベースに変種がいると教えることになる。そして話しかけてみて、『違っていた』では済まないんだ」
「そうね 間違いない手がかりが得られるまで待ち続けるしかないなんて、本当にまどろっこしい。
いつか、もっといいやり方が見つかるのかしら」
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