星降る空
文字数 1,681文字
海を渡って吹き寄せる風はまだ冷たいけれど、もう真冬のそれではない。上着を着込めば、頬に触れるぴんと張りつめた空気がむしろ気持ちいい。何よりこの時期は空気が澄んでいて、空の星がとてもきれいに見える。
2人で並んで海岸を歩く。砂を踏む感覚と、からだに響く波の音が心地いい。
スティーヴは暗い空を見上げた。
「よく晴れてるね 星が降ってきそう。
あれ オリオン座だ この時間なら木星も見えるね」
東の空の水平線近くを探し、ひときわ明るい星を探し出して指さす。
「大戦前は、大気汚染や光害なんかで星もよく見えなかったらしいけど」
「戦争と内乱でアメリカの工業力が破壊されて、人々の生活水準は大幅に低下した。だが自然環境はよくなったと言えるな」
「でも せっかくきれいに星が見えるようになっても、みんな、生きることに手いっぱいで、生活の役に立たないものには興味を持たなくなっちゃったよね」
「一般市民の感覚で言えば、星などを眺めても生活の足しにはならないからな」
「うん 専門の学者とかでもなければ」
スティーヴはふっとため息をついた。
「……でもさ 星を見上げていると、何か思い出すような気がしない?」
「何を?」
「んー すごく昔のことのような気もするけど、でもこの人生での過去じゃない……時間なのか距離なのか、何か遠いもの。思い出しそうで、はっきりとは思い出せない……。
覚えているはずのことなのに思い出せなくて、ただ懐かしいような、少し寂しいような感じ……そういうのない?」
ジュピターはしばらく沈黙し、空を見上げていた。
「……何か 胸の奥を刺激されるような感覚があるのは確かだな——具体的な記憶や経験には結びつかないが……妙なものだ」
「ね? 物理的に言えば、近くの惑星や遠くの恒星から地球に届く単なる光だけど、真っ暗な空に輝く星というのは、僕らの胸の中にある何かと呼び合っている気がする。
数千年……数万年前にも、きっと人間は夜空を見上げてた。星座の位置とかはその頃と少し変わっていても、同じような畏敬と憧れをもって思いを馳せていたんじゃないかな」
「——それについて考えれば考えるほど、私の心をつねに新たな、そして増しゆく畏敬と驚きで満たす二つのもがある。我が頭上なる星満ちてある空と、我が内なる道徳律」
「それは……」
「イマヌエル・カント」
「へえ……カントは難しいなって思ってたけど でもその言葉はすごく響く」
「カントの言葉や議論の尽くし方は哲学というものの性質上、多少、抽象的でわかりにくいかもしれない。だが言おうとしていること自体は、人間としてあるべきことの本質を語っている」
「ふふ ジュピターはやっぱり哲学者なんだよね。官僚のふりをしてて、仕事も実際にすごく有能だけど、でも心の奥ではこの世界を違う場所から見渡してるんだ」
「お前も訓練官などという現場労働のようなことをしているだろう。だがそのかたわらでいつも別のものを見上げている……そうだな ロマン派の詩人が見ていたような夢を」
「うん……でもね ヘッセの詩集を読んでいて、考えるんだ。
彼の若い頃の甘く優しい恋の詩から、戦争を経て、たくさんの苦しみや悲哀を経験して、晩年の少し哀しい、それでも自分の魂に形を与え続ける意志をうたう詩まで……彼が語っている感情や思いのすべてを、僕にはまだ理解できているわけじゃない。そのためには、もっと生きてみなくちゃいけないんだって」
ジュピターは思い深げに黙っていた。
しばらくして、静かにつぶやく。
「星座を眺めるということにさえ、ささやかな地上の足場が要るのではなかろうか……なぜなら信頼はただ相手の信頼の中から生まれ、あらゆる施しは返礼にほかならない……」
リルケの詩の一節だ。そしてジュピターが、ここでそれを引用したことの意味を胸の中で感じた。
自分の言葉は彼の中で反響し、そしてそれは彼の思いを加えて戻ってきて再び自分を揺らす。そんなかけがえのない友人なんだ、お互いに。
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