トラブル

文字数 3,287文字

 二人が働き始めてから、ここまですべてがうまくいっていた。ジュピターの仕事ぶりは速くて的確で、上官からの評価もとても高い。じきに昇進がくるだろうとリリアは思った。
 同期の士官たちからも「仕事中毒(ワーカホリック)」とからかわれる彼を補佐してくのは、それなりに大変でもあったけれど、それも気にならないほど、リリアにとって幸せな時間でもあった。
 彼と出会うまで、自分はこの世界で独りだと感じていた。変異種であるという秘密を隠して、独りで人生を終わりまで歩いていくのだと諦めていた。
 多くの人にとって当たり前の権利である家庭を持つことも、自分には手が届かない。
 変異が遺伝子レベルで起きているなら、生まれる子供も変異種かもしれない。自分はたまたま発現が遅く、機構の目をくぐり抜けることができた。でも生まれた子供もそうなるとは限らない。危険な綱渡りのような人生が待っていることを承知で、あえて子供を産むという選択はできなかった。
 それに……そもそも変異種に子供が産めるのかどうかもわからなかった。
 でも少なくとも、今はもう独りではない。
 まわりに対して隠さなければならない秘密を互いに分かち合って、一緒にいることのできる男性(ひと)がそばにいる。それだけでも、リリアにとっては信じられない幸運だった。
 彼は自らの生い立ちのようなことは何も話さなかったし、リリアに訊ねることもなかった。リリアにとっても、過去は思い出したくないことの方が多かったから、それでかまわなかった。
 ただ彼はリリアがそばにいて、そしてこれからずっとそうなのだということを受け入れた。彼にとって過去は、前に進むための足場でしかない。彼の金色の瞳は、いつも今この現在と、その先にある未来に向けられていた。
 毎日、彼と接しながら、互いの感じ方、ものの見方がどれほど違っているかを知るのは驚きでもあり、楽しみでもあった。
 変異種というのはみな自分のように、他人の感情を感じとってしまうものだと思っていたけれど、そうではないことも発見した。
 自分の心の外側の境界(バウンダリ)は、普通の人よりずっと透過性が高い。幼い頃から、他の人の気持ちに感情移入してしまう方だったけれど、能力が発現してからは、それは肌に感じるようにはっきりとした、具体的な感覚になった。
 近くにいる人が自分に感情を向けると、それは自分の中に入ってくる。止めようとしても止めることはできない。だからそれを「気にとめない」ことを学んだ。
 でも彼にはそんなことはないらしい。彼の心の外側の境界(バウンダリ)は、自分自身とまわりの人間をはっきりと分け、他人を中に入れない。
 それは彼の変種としての特質なんだろうか、それとも彼の人間としての個性なんだろうか?
 でもどちらであるにしても、テレパシーで話しかける時には、その壁の向こうにいる彼に触れることができた。
 リリアは感情的な人々に囲まれて育った。子供の頃から自分のせいではないことで責められ、冷たく扱われる経験をしてきた。だから否定的な感情を向けられるのには慣れていた。
 でもジュピターはどれほどプレッシャーがかかり、ストレスの多い状況下でも、いらだちやフラストレーションをリリアに向けることがなかった。
 何かを他人のせいにすることということが彼にはない。何かがうまくいかない時には、それを克服するために自分がまだやっていないことは何なのかだけを考えていた。
 仕事を通して彼と時間を過ごしながら、少しずつお互いのことを知る。そして彼が望む場所に向かって行くのを手助けすることに、リリアは満足を感じていた。

 リリアは端末の画面を眺めていた。あれこれと考えを巡らせてから、ジュピターに声をかける。
「新しく回されてきた案件なんだけど、ちょっと面倒かも」
「どういうふうに?」
「内容自体は別に複雑じゃないの。演習場の整備プロジェクトなんだけど、ただ第7ディヴィジョン(7D)との交渉が必要」
「なるほど」
 ジュピターがそれに目を通す。
 ベースの指揮・管理系は二つに別れている。官僚系統の1から5までのディヴィジョンと、軍としての命令系統を持つ6、7、8のディヴィジョンだ。
 二人が配属されている第5ディヴィジョンは官僚系で、ベース全体の内務を担当するが、軍に対する管理権限はもたない。軍はベース内の実質的な自治区域で、内務は軍の要請に応じて必要なことを提供する。
 しかし内務の管轄と軍の管轄が重なる領域というのがどうしてもあり、そこでは命令系統の小競り合いが起きることがあった。
 そのような場合、内務としては軍の上層部に話を通そうとするが、とりわけ陸軍(7D)の上層部は「官僚どもの話を聞くのも面倒くさい」とばかりに、「当事者と交渉して処理せよ」と指示してくる。
 内務にとっては軍もベースの一部だが、軍は「自分たちは官僚から命令を受ける立場にはない」と考えている。
 アメリカ境界州ベースは、機構の安定した管理下にある北部と、反乱軍の跋扈する南部の境界上にあり、いわば防衛の壁だ。
 陸軍(7D)の負傷と死亡による兵士の除隊率は高く、彼らは文字通りその壁を死守している。だから「この地域で機構の統治を可能にしているのは自分たちだ」という自負がある。
 そしてそれはある意味、事実でもあり、それもあって、よけいな摩擦を避けるのが内務の方針だった。
「これ、私たちの階級レベルで手に負える案件じゃないわ。多分、上の人たちがみんなやりたくなくて、押しつけられたんじゃないかしら。
 上官に申し出て、担当を代えてもらうことはできると思うけど」
「割り振られてきた仕事なんだから、最初からあきらめる必要はない。とりあえず通常ルートでミーティングの希望を伝えてくれ」
 リリアがメールを打つと、しばらくして返信があった。
「7Dのコミュニケーション担当者からだけど、『自分たちで現場の当事者に交渉しろ』って」
「この場合の当事者は誰だ?」
 端末で調べながら答える。
「第1演習場を使ってるオキーフ中佐の大隊ね」
「中佐はどこにいる?」
「今日は夜間演習だから、この時間は廠舎(バラック)にいると思うわ」
「ではそこに行く」
「行くの? あの人たち、自分たちの縄張りに外部の、とくに内務の人間が足を踏み入れるのを嫌うのよ」
「嫌われようが何だろうが、こちらも仕事だ。
 君は来なくていい。7Dのやつらの品のなさは有名だ」
「そういうわけにもいかないわ。何か問題が起きそうになったら、上官に連絡をとらないといけないし」
「心配性だな」
「自分の士官の心配をするのは副官の仕事よ」
 いずれ言い出したらジュピターが引くことはない。
 そして彼のこんな向こうっ気の強さも、リリアは好ましく思っていた。

 陸軍(7D)の演習場はベースの外部の周辺区域に分散している。
 目的の演習場の手前にある廠舎(バラック)のそばにジープを止めて降りると、タバコを吸いながらたむろしていた兵士たちがこちらを見る。
 銃を担いだ歩哨が近づいてくる。
「どこのもんだ」
「見ればわかるだろう。内務だ。オキーフ中佐に話がしたい」
「うちの中佐は事務屋なんかに会わねえよ。用があったらこっちから呼ぶっていうのが決まりだ。知らないのか」
 いつの間にかばらばらと兵士たちが集まってきていた。
「まったくいい気なもんだな。小ぎれいな官僚は女連れで仕事か」
 リリアの体に手を伸ばそうとした兵士の手首をジュピターがつかみ、不機嫌な顔で払いのける。
「兵士のくせに、規律のかけらもないんだな」
「こいつ、えらそうなこと抜かしやがって」
 7Dの兵士たちは気の荒い者が多く、ベース内でも頻繁にもめ事を起こしている。それもあって行政士官たちは基本的に関わりを避ける。
<ジュピター 気をつけて! この人たち乱暴……>
 リリアのテレパシーでの呼びかけより早く、兵士の1人がジュピターの後ろから肩をつかむ。ジュピターはふり向きざまに兵士を殴り飛ばし、重そうな体が後ろに跳ね飛んだ。
 他の4人がジュピターにつかみかかろうとし、騒ぎに気づいた他の兵士たちも集まってくる。その様子は仲間を止めようという雰囲気ではなかった。
 リリアは顔から血の気が引くのを感じた。

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登場人物紹介

ユリウス・A・アキレウス
アメリカ境界州ベースのエリート行政士官。思考力に優れ、意志も強く有能だが、まわりからは「堅物」「仕事中毒(ワーカホリック)」と呼ばれている。
あだ名 「ジュピター」(士官学校でのオペレーションネームから)

リリア・マリ・シラトリ
アキレウスの副官でコミュニケーションの専門家。親切で面倒見がよく、人間関係に興味のないアキレウスを完璧に補佐する。料理好き。

ワン・タイフ

境界州ベースの陸軍士官。快活で決断力があり、喧嘩も強い。荒くれ者の兵士たちからも信頼が厚い。

あだ名 「虎」(部下の兵士たちが命名)

ナタリー・キャライス
境界州ベースのシヴィリアンスタッフで、すご腕の外科医。頭が切れ、仕事でも私生活でもあらゆることを合理的に割り切る。目的のためには手段はあまり選ばない。

スティーヴ・レイヴン
境界州ベースに配属されてきた見習い訓練官。明るく純真で、時々つっ走ることがある。大切な夢を持っている。絵を描くのが趣味。

リウ・ウェイラン
ニューイングランド州ベースで隊附勤務中の士官学校生。優しく穏やかで、ちょっと押しが弱い。絵を描くのが趣味だが料理も得意。

ダニエル・ロジェ・フォワ
ニューイングランド州ベースの陸軍士官。生真面目で理想主義。弱い者を守る気持ちが強い。

マリア・シュリーマン
ミッドアトランティック州ベースのシヴィリアンスタッフ。優しく繊細で、やや引っ込み思案。古い絵を見るのが好き。

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