手放さない記憶
文字数 2,589文字
会話がテレパシーに切り替えられる。
<……リリアだけを見ていた時には判断しかねていたが、ウェイランを見るようになってわかった。
共感型は基本的に、自分に指向性のある他人の感情をとらえる。しかし能力が一定のレベルを超えると、まわりにいる人間の感情の動きを、それが自分に向けられたものではなくても、感じとるようになる>
<そうだね>
<お前もそうなんだな>
<うん リリアやウェイといるうちに、だんだんそうなってきたみたいだ。
リリアから教わって、自分に関係のないものは雑音として意識に入れずに流すようにしてるけど……でも親しい人の中で感情が動くと、それには気づいてしまう>
<純粋に共感型のリリアやウェイはともかく、お前の場合は、分析型の性質をもっと発達させることで、それを止めることもできそうなものだが>
<それは……まわりの人間から心理的というか感情的な距離をとるってこと?>
<あるいは自分と相手の間に壁を築くことを学ぶんだな。分析的な能力を伸ばしたいなら、相手と自分を分ける能力は必要だ。
私やナタリーではそれがデフォルトの状態だが、お前の場合はオプションとして可能だろう>
<うん それはそうかなって思ってるけど、まだ感覚的につかめない。心理的な壁を維持する感覚というのを、教えてもらわないといけないね。
……それで イメージの女の子、誰か訊いてもいい?>
ジュピターは髪をかき上げ、ふっと息をつくと、人さし指でテーブルをたたいた。
仲間の間で使う、「心を読め」というしぐさだ。
<……お前の記憶をさんざん見せてもらっておいて、こちらの記憶を見せないのは不公平というものだな>
テーブルの上に置かれたジュピターの腕に、スティーヴはさりげなく手を置いた。こうすることで、心から心に伝わるイメージがより鮮やかになる。
ちらりとかすめたイメージの印象が暗いものや悲しいものだったら、訊ねてはいなかった。そういうのは触れずにそっとしておくべきものだというのは、わかってる。
でもジュピターの中に見えたのは、あざやかで美しい記憶の断片だった。
ジュピターがイメージのもとになった記憶を呼び起こし、心の中で再生し始める。
この場所は 知っている……そう、ベースの中にある競技場だ……
士官学校の代表として出たボクシングの競技試合。
最終ラウンドで激しく打たれて倒れ込んだ。レフェリーのカウントを受けながら立ち上がろうともがいていた時、その声は自分の頭の中に響いた。
声ではない声——これは テレパシーなのか?
<立てるわ>
ふらつく頭を持ち上げる。
<――私 あなたが誰か知ってる――私たちは独りじゃない>
その言葉に込められた意味にはっとする。
言いようのない思いに胸をつかまれながら、力をふり絞って立ち上がった。
気力をとり戻して再び接戦に持ち込み、ぎりぎりのところで相手をノックダウンした。
興奮した
レフェリーが勝者を宣言し、グローブをはめた自分の手をつかんであげさせた。
(どこだ?)
レフェリーの手をふり切り、ロープから身を乗り出してあたりを目で探す。
(声はどこから来た?)
観客でいっぱいの座席の間の狭い通路を、一人の少女が背を向けて駆けていく。彼女は出口の扉の前で立ち止まり、一度だけこちらをふり向いた。
距離がありすぎて顔立ちもよくわからない。ただブルネットのように見える髪の色と、明るい色のブラウス……。
記憶の中の少女の姿は、ジュピターの彼女に対する感情に包まれて、うっとりするほどきれいだった。
<この女の子は 誰?>
ジュピターは黙ってエスプレッソのカップを手の中でもてあそんでいたが、やがて言った。
<わからない。それまで会ったこともなかったと思う。
ただ 彼女は……話しかけてきた>
少女の声のこだまを、ジュピターの記憶の中に聞くことができた。
彼女の言葉は、その時のジュピターの心を深いところで揺さぶった。
12歳で心理検査を通過して士官学校に入り、その直後に能力が目覚めて自分が変異種だと知った。
いずれ行政士官になり参謀部に入るというのは、行政士官だった父親の敷いた道だった。それに対するせめてもの反抗として、ヨーロッパを出てアメリカの士官学校に入ることを選んだ。
だが自分が変異種だと知った時、将来の計画も、それに対する反抗も、すべてが意味のないものに思えた。ただ目の前に立ちふさがったのは、自分が誰であるかを隠すことで、身を守らなければならないという現実。
死ぬのは怖くはないが、科学局の収容施設に閉じこめられるのはまっぴらだ。
自分が変異種だと親に打ち明けることなどできなかった。治安維持の専門家だった父親は、息子をかばうために嘘をつくよりは、息子を当局に差し出すだろうという確信があった。
他人をそばに寄せつけず、ただ敷かれた道を走った。
そして聞いた少女の声。
自分は独りではないと気づいた時、それは生き続けることへの意志を目覚めさせた……。
スティーヴは夢中でジュピターの記憶と思いを受けとりながら、胸が熱くなるのを覚えた。
<――その女の子は、ジュピターが一番初めに会った仲間だったんだね! その後、彼女には会えたの?>
<競技場の出口から姿を消して、そのままだ。
居合わせたクラスメートに訊ねても誰も知らなかったし、彼女からのコンタクトもない>
ジュピターの視線が遠くを見る。
その日の夜、個室のベッドに転がり、天窓から夜の空を見上げながら、スティーヴはジュピターとのやりとりを思い出していた。
ずっと不思議に思っていた。
境界州は士官学校のレベルは高いが、卒業後の勤務先として人気のあるベースではない。ジュピターのように、どこのベースででもトップに上れそうな士官が、士官学校を出てそのまま境界州に残ることにしたのはなぜだったのだろうと、ずっと思っていた。
タイガーのように、南部州の歴史と反乱軍の鎮圧に興味があったとかいうならいざ知らず。
でもジュピターは、ここにいれば、いつかまたその女の子に会えるかもしれないと思ったんだ。
素敵だな。
今の僕らには、まだベースの外に探索を広げる力はない。
でももしかしたら、いつか彼女を探し出すことができるかもしれない……。
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