繭
文字数 2,775文字
そんなふうにリリアはよくスティーヴが自分に向ける気持ちを感じていたし、スティーヴのことを心配したりすると、彼の方でがそれを感じとって「大丈夫だよ」とテレパシーで返事が返ってくることもよくあった。
しかしあの事件が起きてから、スティーヴの感情が届かない。気をもんでいるリリアに対してメッセージを返してくることもない。まるで卵の殻の中に閉じこもってしまっているように……。
共感型のテレパスは、自分に対して指向性のある他人の感情をシャットアウトすることはできない。ただそれを無視するのを覚えることができるだけだ。
でも共感型と分析型のハイブリッドであるスティーヴには、他人からの感情をシャットアウトしたり、自分の感情を押さえ込んでしまうこともできるのだろうか……。
スティーヴには時間が必要なのだとは思いつつ、リリアはマリアから様子を聞いた。
毎晩のようにウェイが来てくれるとマリアは言った。
床に座ったり転がって考え込んでいるスティーヴの隣で、言葉をかけることもなく、ただ静かに座っているという。
それを聞いて、ウェイはスティーヴの気持ちを一緒に感じることで、彼の心の負担を軽くしようとしているのだと気がついた。
言葉を交えなくても、そういう支え方もあるのだ……。
あの晩からずっと続いている、居心地の悪い眠り……夢を見ているのでもなく、はっきり覚めているのでもなく……。
目を開けると天窓から見える空はまだ暗い。
マリアは眠っている。
スティーヴは彼女を起こさないようにそっとベッドを抜け出て外に出た。
ヴァージニアの夏はずいぶん蒸し暑いが、この時間はまだ夜の冷気が残っている。
薄暗い空の下を、居住区の縁にある林に向かって歩く。
木々の間をあてどなく歩き回りながら考える。
自分が何をしたいのかわからない。
自分が夢だと思って抱えていたものは何だっただろう……。子どものような夢を、ただまわりに押しつけていただけではなかったか……。
そしてその夢に関わる人たちを守らなければいけないということを、自分は本気で考えてはいなかった……。
ふいに向こうの方に人の気配があるのに気づく。
その姿は見覚えがあった。
長身の人影が足下の植物を見ながらゆっくりと歩いている。木々の中に溶け込む目立たない私服姿は……このベースに来たばかりの頃に会った、あの人だ。
男性は何かを調べるように木の幹に手を触れ、それから空を見上げた。
スティーヴは黙ってその仕草を見ていた。
やがてそのまま林の奥に入っていきそうになる。
思わず声をかけた。
「あの……」
それまでひっそりとしていた木々の間に自分の声が響き、影のような長身がゆっくりとふり向く。
近づいていくと、静かな灰色の瞳がこちらを見た。
「覚えてないかもしれませんけど、ずっと前に植物のことを教えてもらった……」
「ああ あの後、ヴァージニア・ブルーベルは見つけたかね」
「……あ はい 花が咲いているのを見つけて、友達と一緒に写生をしました。
でもあれから植物はあまり見なくなってしまって……やることがたくさんできて、いつの間にか……」
「ここでの生活に慣れてきたのだろう。ベースで働いていると、じきに仕事と娯楽以外のことには興味を払わなくなる」
「でも あなたは自然や植物が好きで、こんなふうに見て回っているんですね」
「趣味というのは今の時代には贅沢品だ」
「ここで働いてるんですよね 環境整備の担当とかですか?」
「そんなところだ ついて来るがいい」
男性の後を追って歩いているうちに、少しずつあたりが明るくなり始める。
やがて目の前に草原が開けた。
居住区の林はずいぶん歩き回ったと思っていたけれど、まだこんな見たことのない場所があったんだ。
背丈が1メートルを超すぐらいの、大きくたくましい葉をつけた植物がたくさん生えている。大きな葉の間からは、薄い赤紫の丸いかたまりが顔をのぞかせる。近づいてよく見ると、丸いものはたくさんの小さな花の集まりだった。眠気を誘うような甘い香りがあたりに漂う。
「これはコモン・ミルクウィードだ。このへんで最も一般的なアスクレピアス属の植物で、ヴァージニア・シルクウィードとも呼ばれる」
ミルクウィードと聞いて、ずっと昔の記憶が刺激された。
「……確か モナーク蝶の幼虫の餌になる……」
「そうだ モナークの幼虫はこの葉を食べて有毒なアルカロイドを体内に蓄えるので、鳥はこの虫を捕食しない。毒はサナギや成虫になってからも体内に残り、この虫を守り続ける」
近くの木を目で探していた男性が、一本の枝を指さす。
そこにはきれいな緑色のカプセルがぶら下がってがいた。
朝の光の下で見ると、薄いエメラルド色に明るい黄色の小さな斑点が幾つかついている。美しく輝き、それでいてしっかりとして丈夫そうだ。
「この繭から羽化する蝶たちは、冬が来る前にここを出て南へ向かう。このあたりの個体群はメキシコのマリポサ・モナルカにある森を目指す。
そこで冬を越し、春にはまた北にのぼってくる。大きな群になって旅をし、春から夏までに4世代ほどをかけて再びこの土地まで戻って来るのだ。
季節と世代を超えて旅をしながら、自分たちが戻るべき場所を忘れない。不思議なものだな」
それだけ言うと男性はスティーヴを残し、前と同じように木々の中に姿を消した。
その凛として冷ややかな雰囲気に、名前を訊くこともできなかった。
枝の先からぶら下がる美しい翡翠のような繭を、スティーヴは子どものように見つめた。
そうだ……モナーク蝶の渡りの話は小さかった頃、父に教えてもらった。小さく力弱い蝶がたくさんの仲間たちと集まって、5000キロもの距離を旅する……次の世代を生み育てながら、故郷を目指して行くのだと。
リリアは書類から目を上げた。ドアの外に来たのが誰か気がつき、慌てて解錠ボタンを押す。
スティーヴは黙って入ってくるとジュピターのデスクの前に立った。
「心理処理の仕方を一から教えて欲しい。分析型にできることを全部覚えたい」
それまでスティーヴはナタリーから「覚えれば便利よ」と言われても、分析型の能力を積極的に伸ばそうとはしていなかった。
他人の心を勝手に読んだり、ましてやいくら「必要な時だけ」と言っても、人の心を操作したり記憶を消すといったことに対して抵抗を覚えていた。
「たとえ必要でもしたくはないよ」と言っていたのに……。
ジュピターは表情を変えずスティーヴの顔を見た。
「毎週金曜日の夜、必要なことを覚えるまでだな」
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