誘惑
文字数 1,560文字
「誰だ?」
「私よ 大尉」
聞き覚えがあるというより、気になって忘れられないでいた声だ。
デスクのコントロールパネルからロックを開けると、軽い笑顔のドクター・キャライスが入ってきた。薄いラヴェンダー色のぴったりとしたワンピースの上に、医務局のホワイトコートをはおっている。
「あきれた。本当にこんな時間まで仕事してるなんて、
「そう言うあなたこそ こんな時間に何をしてるんです?」
「仕事よ。緊急の手術があって、終わったらこんな時間だったの。
それで、あなたが噂通りの仕事中毒なら、まだオフィスにいるかもしれないって思いついたから、来てみたの」
ジュピターは返事をしかね、椅子に背中をもたれかけて彼女の顔を見た。
それとなく近づく口実が欲しいとは思っていたが、彼女の方からやって来るとは。
いや……自分の推測が正しく、本当に彼女が変種だとしたら、あの晩、彼女の方でも何かに気づいていた可能性がある。
リリアとは違うタイプにしろ、具体的に彼女がどんな能力を持っているのかも、まだわかっていない。
ドクター・キャライスは、空いている椅子をジュピターの隣に動かして座り、片手で机に頬杖をついた。
「あなた リリアとはつき合ってるの?」
「……それが恋愛関係という意味なら『ノー』です」
「あなたとデートしたがっている女性がベースに山ほどいるのは知ってるでしょ? それを一人残らず無視しているのはなぜ? 女性に興味がないわけ?
あの、よく一緒に見かける訓練官の男の子が恋人だったりする?」
「あなたに対してそういう個人的な質問に答える理由は、今のところないと思いますが」
ドクター・キャライスの顔に、艶やかな微笑みが浮かぶ。
彼女の白い、形のよい両手が滑らかな動きでジュピターの頭を引き寄せる。顔を近づけジュピターの目を見つめると、柔らかな唇でキスを奪った。
ゆっくりと唇を離し、いたずらっぽく微笑む。
「これで理由になる?」
「女性とつき合わないのは手間だからですよ。恋愛問題の処理に時間を割くほど暇じゃないのでね。結婚などする予定もない」
ドクターが笑う。
「ほんとに評判通りのものの言い方をするのね。いいわ、そういうの。
じゃあ私もはっきり言うわ。手間じゃないような関係ならどう?」
「――」
「私も結婚なんてするつもりはないし。ベース勤めの外科医としてのキャリアは結婚や恋愛とは両立しないし、私はキャリアの方を選んでる。
だから面倒じゃない愛人を探してるのよ。
その点、あなたは感情的にクールで、べたべたしところがないし、きちんと関係を切り分けられるタイプよね。女性を自分の所有物だと勘違いするタイプでもない」
ドクター・キャライスの声を聞きながら、あの晩に感じとった彼女の心の手触りを思い出す。
研ぎあげたナイフのように鋭い知性と、目標を定めたらぶれることのない意志の力。それでいて同時にその輪郭はつかみどころのない曲線で、彼女の存在の全体を簡単に把握することを許さない。
リリアの心のパターンには繊細で美しいバランスがある。それは野に咲く花が美しいように、誰が見てもわかる美しさだ。
それに比べて、ドクター・キャライスはもっと自分に近いものだという気がした。しかし彼女のパターンは一見、硬質で透明なガラスのようだが、その奥を見通すことができない。
そのパターンをもう一度、ゆっくり確かめてみたいが……。
「考えてるってことは、興味があるのよね?」
「そうだな……手だけを握っておしまいにするという訳には、いかないだろうな?」
「小学生の男の子みたいなこと言わないでちょうだい」
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