はざま
文字数 3,180文字
夏の朝の日差しがまぶしい。ヴァージニアの夏は蒸し暑いが、朝の早い時間は湿り気のある涼しい空気が肌を包み、それなりに気持ちがよかった。
士官学校の行政コースを昨年卒業し、1年の隊付勤務を終えて正式に働き始める。
ここまですべてがうまくいっていた。
自分の「特殊な力」を試し、何ができるのかを確認してからは、他人の心を読んだこともない。その必要がなかったからだ。自分の身を守るために他人の心を探らなければならない状況は起きていなかった。
そして自分の立場を有利にするためという理由だけで、その力を使いたくもなかった。「普通の人間」としての能力だけで、ベースでの昇進というゲームを勝ち上がりたいとも思っていた。
士官学校の4年時、変異種についての講義を科学局のスタッフから受けた。
と言っても、機構の広報を通して一般に知られていることに比べ、それほど多くの追加情報が与えられたわけではない。
重要な知識は科学局がすべて研究室の壁の中に閉じこめている。外からそれに手を触れられるのは、ベースの司令官と
「変種の共通能力はテレパシー、つまり物理的な手段を介さずにコミュニケーションを行う能力。それに加えて他人の心を読みとることのできるタイプがいるが、幸いこれは数としては非常に少ない。
テレキネシスは、物理的な手段を介さずに物体を動かす能力。これも数は少ない」
スタッフは淡々と説明した。
どのようにこういった知識が得られたかについては触れられず、そして誰も質問しなかった。だが、それが収容施設の子供たちを研究対象にして得られたものなのは明らかだった。
「……テレパシーが届く範囲には限りがあり、最大で5、6メートル四方。基本的には同じ室内だ。ベース支給のWifiルーターより性能が悪いね」
くだらない冗談に学生たちが笑う。
「テレキネシスは物理的な影響がある分、場合によってはテレパシーより危険になる。しかしこれも影響を及ぼせる距離はきわめて短いし、その作用を遮断する方法も研究中だ」
しかしそれが事実なら――たかだか近距離にいる人間の心を読んだり、物体を動かす程度のことがその能力のすべてだとしたら――変種の存在というのは、社会によってそれほど恐れられなければならないものなのか?
別の日には警備局の副局長が、心理検査を逃れて野放しになっている変種が発見された場合の対処について説明した。
「発見された変種に実際に対処するのは警備局の仕事だ。君ら小ぎれいな行政士官は手を汚すことはない。だが書類上の後処理は君らの仕事だ。そのために知っておいてもらう必要のあることを話す」
暗い目つきをした副局長は言った。
ユリウスはそれを無表情なまま聞いていた。
運が悪ければ、自分はその「対処」の対象になっていた。
もしもいつか……その「後処理」の決裁にサインをしなければならない時が来たら、どう自分はそれと向かいあうのか……。
ベースの壁の内側にいる限り、死神は自分の方を見ずに通りすぎていく。これまではいつもそうだった。だが、それは本当にずっとそうなのか……。
気がつくとカフェテリアに着いていた。手首のIDをスキャンにかけて、ガラスの自動ドアを通る。
朝食のラッシュ時を過ぎて、居住区のカフェテリアに人は少ない。
500人を収容できる広々としたダイニングエリアの天井は高く、壁は明るいエッグシェルに塗られている。東側の壁は一面がガラス張りになっていて外からの光が入り、ガラスの向こうには芝生の緑が見える。シンプルで、それなりに機能的な美しさのある建物だ。
ヴァージニアに位置するアメリカ境界州ベースは2万5千人を擁する。単なる
ベースで働く者は衣食住を保証される。住居は管理局によって割り当てられ、食事は敷地に点在するカフェテリアで提供される。士官専用のレストランもあるが、ユリウスは手間のないセルフサービスのカフェテリアを好んだ。
サービングカウンターには皿に盛りつけられたサラダや冷菜が並ぶ。温かいスープやメインディッシュは、カウンターの後ろのサーバーに注文して受けとる。
果物のプレートとヨーグルト、それにフムスのオープンサンドをトレーに載せ、人のいないテーブルの席に着く。ミントのティーバッグをカップに入れて、給湯器で湯を注ぐ。
ベースでの生活は快適だ。外の一般区域では、復興の進んでいる主要な都市圏を除いて、食料を含めた物資の供給もまだ潤沢とは言い難い。衣食住を比較的高い水準で保証されたベース内の生活は、北アメリカの大部分の住人からすれば一種の特権とも見なされていた。
食事を終え、2杯目のミントティーを飲みながら、手元のタブレットに副官コースの新卒者の情報を呼び出す。
正式の仕事始めは2週間後だが、その前に完了しなければならないことがあった。副官の人選だ。
副官は士官学校の副官コースの卒業者で、行政士官の仕事を支えることに特化した専門家だ。有能な副官を得られるかどうかが、こなせる仕事の量に関わり、昇進ペースに影響する。
高級士官に駆け上がるための競走は激しく、さらにベースの幹部である
副官の選択は各士官に任せられており、コースの優秀な卒業予定者には士官からのアプローチが殺到する。新任の士官たちはもちろん、すでにキャリアを積んだ高級士官の中にも、退官する副官の代わりを求める者もいて、獲得競争は激しい。
打診のあった士官のために働くかどうかは副官の側に選択権がある。副官職にとっては、自分の士官の昇進を支えることが自分自身の昇進の道でもあるため、できるだけ将来有望な相手を選ぼうとする。
機構の方ではこういった競走性と裁量の自由度が、システムの生産性を高めると考えているようだった。
卒業予定者の名前がタブレットに並ぶ。すでに他の士官と合意を結んだ者には注記がついているのでリストから外し、残った者の成績や教官評価を読み直す。
ユリウスはコミュニケーション能力の高い副官を求めていた。自分にとってそれがもっとも苦手な、あるいは興味のない領域だということは自覚していた。
茶を飲み干すと、ベースの中央ビル群からそれほど離れていない士官学校の建物に向かう。
副官コースの卒業予定者たちは大きな会議室にいた。ガラスで隔てられたオブザーバー用の席には、すでに同期の新任士官たちが何人も座っていた。
ガラスの向こうでは学生たちがディスカッションを行っている。一人一人の発言を聞きながら、タブレットのリストと照合する。
中休みに入ると、隣に座っていた同期生が声をかけてきた。
「アキレウス 眼鏡にかなう候補はいたかい? 君のことだから、もうとっくにベストチョイスを確保してると思ってたぜ」
「自分の条件に合うかどうかを完全に見極める前に、焦ってつかむのは賢明じゃない」
「まあ 君は俺らの中の首席卒業だし、昇進レースでも先頭だから、副官候補らの方から寄ってくるんだろうな」
「こちらが興味がないのに寄ってこられても迷惑だ」
笑い声があがり、ユリウスは会話をうち切ってオブザーバー用の部屋を出た。
候補はすべてチェックしたが、正直、気に入った者は見つからない。次のステップは……。
通路の向こうから、キャデットブルーの制服を着た女性が歩いてくる。見知らぬ
相手は近寄ってきてユリウスの前で立ち止まり、顔を見上げた。
柔らかい緑の瞳が自分を見つめる。
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