第12話

文字数 1,452文字

 イザベラが弟たちを脱出させていたころ、オリンド大公の私室に女官長のアンジェラが呼び出されていた。彼女は六十近い年齢だが、若いころはさぞや美しかったであろうという面影を、今も色濃く残していた。だが彼女の顔色は悪く、震えている。できることならばこの呼び出しを無視したいのだが、命令とあらば従わねばならない。ノックをすると、
「入れ」
 とバリトンが響いてくる。

 アンジェラはぎゅっと目を閉じ、深呼吸をしたうえで重厚な扉を自ら開けた。長椅子に腰かけた男が、長い足を組んでいる。砂色の髪には若干白いものが混じり始めている。

「ご用は、何でございましょうか」

 大公の前で膝をつき、自分の視線が主君の下になるようにした。肌が泡立つ感覚を、アンジェラ女官長は覚えている。周囲に人がいるときはそうではないが、二人きりに、それがオリンド大公の私室となると、彼女は自身の身体に異常を覚える。この部屋に入るたびにアンジェラは、先代大公の顔を思い出してしまう。彼女自身も若く、華やかな暮らしをしていたあの頃のことを、どうしても脳裏に蘇らせてしまう。

「つれない物言いだな、アンジェラ」

 不意に口を開いたオリンドは、堪えきれなくなったのか笑い出した。全身を震わせ、心底おかしくて仕方ないという風に大公はひとしきり笑うと、意外に穏やかな顔でアンジェラを見た。その笑顔に、背中に冷たいものが流れ落ちたアンジェラ。

「妃が死んで、ひと月が経った。わたしは寂しいのだ、アンジェラ」

 椅子から立ち上がったオリンドは、金縛りにあったかのように動けなくなってしまったアンジェラの傍で屈みこむと、白髪の多くなった彼女の髪に触れた。

「お、お戯れは、おやめくださいませ」
「なにが戯れなものか。私は四十年前から、ずっとそなただけを思い続けたというのに」

 嫌悪感で思わず腰を浮かしかけたアンジェラの肩を、オリンドのた両手が掴む。

「そなたを想い慕う心は、老いてもなお衰えを知らぬ。なぜ一度抱かれたきりで、私を拒む? やはりそなたは、まだ」
「わ、わたくしは先代大公の側妾です。他の先代側妾方のように、なぜ出家させて頂けなかったのですか?」

 心の底から湧き上がる嫌悪感をこらえ、アンジェラは喘ぐようにして言う。そんな老女と呼ばれる歳になった彼女を、それでも執拗に求めるオリンドはギラギラと光る目で彼女を眺め回す。

「そなたがイザベラの母で、私の愛を一度でも受け入れたからだ。父上の冥福など祈らせるものか。そなたはずっと私のものだ」

 熱っぽい囁きも、アンジェラにとっては苦痛以外の何物でもない。何が愛だと、アンジェラは憎悪と嫌悪感で肌を粟立たせた。合意の上ではない、男の力を振るって無理矢理に身体を征服しただけではないか。そう叫びたいのに、あの時の恐怖が蘇り動けない。

 先代大公が最も愛し、また最後の側妾だったアンジェラ。十七歳で側妾として召しだされたとき、彼女を見初めてしまったのがひとつ年下のオリンド。妃と死別し、他の側妾たちも老いたあの当時、アンジェラの待遇は大公妃と同格であった。父の妃に想いを寄せても、どうにもならぬと判っていたが、父が亡くなった途端、何かが崩れた。

 代替わりをすると、先代の側妾たちは宮殿を離れ静かに余生を過ごすのが慣例だった。しかし、当時まだ二十四歳だったアンジェラは、大公位に就いたオリンドの命令で断絶した子爵家を継ぎ、子爵夫人の称号を得た。そしてそのまま宮仕えをするよう命じられた。十年近く彼女はオリンド大公に求愛されたが、拒み続けた。
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