第62話

文字数 1,131文字

「アシオー女神はプラテリーア公国でも、というより私個人が深く信仰している。礼拝は喜んで」

 これがもし他の神や女神を彼女が信仰していたら、話は少しややこしくなっていたかもしれない。しかし女ながらイザベラは軍人だ。戦を生業としている者は、例外なく戦を司るアシオー女神を信仰している。

「お気をつけくださいませ。イザベラ様が皇后になることを、誰もが諸手を挙げて賛成しているわけではありません」

 エリーゼはさらに声を落とし、イザベラに聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で忠告した。この部屋にいる女官たちが、そういった連中の密偵かもしれないのだ。さすがクレメンスが万事に頼れというだけあって、全面協力するつもりらしい。

「筆頭は、ハインリヒ補佐官だろう?」

 こちらも声を落とし、わずかに肩をすくめる。ふふ、と忍び笑いをもらしたエリーゼは頷く。

「あとは小物ばかりですが、欲望のためなら悪どい事も平気でやりかねない連中です」
「気をつける、ありがとう」

 会話の間にも、二人はさりげない様子で書物を手に取ったりペンを握ったりと、いるかもしれない密偵の耳目をごまかしている。その動きはとても自然であった。





 じっと部屋の隅で観察していたひとりの女官は、先に始末をするのは女官長だと思い極めていた。その女官はイザベラ付きというよりも、その部屋担当である。これから約一ヶ月間、毎日イザベラと女官長がやってきて、国葬と戴冠式、婚儀および宮廷内での作法などを勉強していく。女官としての仕事は二人が来る前に、部屋の掃除や調度品を整えたり、途中に出される茶や菓子の用意をし給仕をすること。つまり、命を狙おうと思えばいくらでもできる立場だ。

『イザベラを暗殺しろ。戴冠式の前に』

 それが宰相ハインリヒからの命令だった。

 隙あらば毒薬を茶か菓子に混ぜ入れようと画策するが、女官長の目が常に光っており、つけ入る隙がない。

「さて少し休みましょうか、わたくしが支度をいたします」

 そう言ってエリーゼは女官たちに何もさせず、イザベラの身の回りの世話をすべて取り仕切る。

(これは油断がならない)

 舌打ちしたい気分に駆られながら、密偵はそれでも女官長の行動に否を唱えることはできない立場。もう一人の方は普通の女官であるため、女官長が自ら茶を淹れることに対しオロオロしている。

「下がっていなさい」

 威厳たっぷりに言われては、引き下がるしかない。二人はおとなしく控えの間に下がった。

「確信いたしました。女官の一人は、補佐官の密命を受けていますね」

 念のため声を落とし、エリーゼは言った。

「ブルネットの髪の女がそうだろう?」

 イザベラのひと言に、エリーゼは目を瞠った。くすくすと笑いながらイザベラは、さっそく茶を一口飲む。
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