第57話

文字数 1,423文字

 自分を見る、あの憎悪に満ちた瞳。世継ぎが欲しいだけだろうの台詞は、未だに彼の耳の奥でこだましていた。同時に手に残る彼女のやわらかい感触も思い出され、苛立ちが募る。

「くそ!」

 腹立ち紛れに壁を拳で殴っても、虚しさしか残らない。

 そもそも、自分は彼女の祖国の民衆は誰も傷つけてはいない。罪なき民衆に暴力――特に女性に対して――や金品の強奪を行った場合はその場で首を刎ねると命令を下したおかげで、公国の民は無傷で国で暮らしている。

 イザベラが見た炎に包まれた城下は全てメリッサによる幻影で、実際には何の損害も出ていない。ただ城に関しては本当に焼き払ったのだが。

 クレメンスは、全ての真実を告げられないまま話し合いの夜を棒に振るという屈辱を味わっている。だが考えてみれば、そういう仕返しをされても仕方がないことをした。

 だが戦における鉄の掟をイザベラも知らぬはずがない。国と国が戦えば、敗国の元首は一族郎党全てが何らかの形で、無惨な末路を迎えることを。

 今回の戦の原因を作ったのは、彼女の父親であるオリンド大公だ。彼が余計な考えを起さなかったら、もっと穏便にイザベラを后に迎えられたのかもしれない。

(弟のロベルト公子もオスティ将軍も、そして民衆も全て無事だと告げたいのに、あの人は)

 気の強さは天下一品だなと、溜め息のひとつも吐きたくなる。しかし彼はそれを許されなかった。彼の私室の前に佇む補佐官の姿を認めたからだ。

「一体、こんな夜中に何をしている?」
「陛下こそこのようなお時間に、この部屋へ戻られるとは。お后さまとの閨はどうなさいました?」

 事情を察しているくせに、皮肉たっぷりに憎らしい台詞を吐くハインリヒ。クレメンスを余計苛立たせるのは、その無表情だ。だが彼は内心の苛立ちを完璧に隠すと
「わたしの質問に答えろ」
 と、語気を強めた。

「陛下にお話があって、こうしてお待ち申し上げておりました」

 最初からイザベラとの(ねや)が失敗すると踏んでの発言に、思わず眉間に深いしわを刻みつける。が、それは一瞬のことでやや皮肉気に言葉を繋いだ。

「話とは、今度は側妃か? 候補はそなたの孫娘か?」

 今度はハインリヒの顔色が、一瞬だが青ざめた。図星を指されたからである。だが宰相はふふっと軽く笑むと、その通りでございますと言った。

「そなた、記憶力が低下したのか? わたしは皇后を、まだ正式ではないが迎えたばかりだ。側妃など必要なかろう」
「皇后候補が、御子さまを身籠られる可能性は無きに等しいのではありませぬか? 国の将来を考えれば一刻も早く側妃をお迎えになり、お世継ぎを」
「世継ぎは皇后の腹からしか、誕生させぬ」

 ハインリヒの台詞を遮るようにして声を荒げた。ほう? と厭味ったらしくハインリヒは呟く。

「果たしていつ誕生されるのでしょうかな。正式ではありませんが婚姻のめでたい夜に、こうして独り部屋に戻られるようでは、先が思いやられますが?」

 一瞬だが、ハインリヒに対して殺意を覚えた。が、クレメンスは下らぬ心配をするなと言い放つと、乱暴に部屋の中へ消えた。その後ろ姿を見送ったハインリヒは、若造めがと憎々しげに呟くと身を翻し、己の執務室へと急ぐ。

(自分が手塩にかけて育ててきた新皇帝を廃する日は、近いのかも知れぬな)

 ハインリヒはふと、己の脳裏に浮かんだ物騒な考えを否定することなく受け入れていた。そしてその思いは徐々に徐々に大きくなっていくであろうと、彼は半ば確信した。
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